桜庭ローラ 星を継ぐ女
今週の『クリード チャンプを継ぐ男』ことアイカツスターズ !86話「涙の数だけ」がロッキーだったので書く
ロッキーダッシュ桜庭
ちなクリードはロッキーの続編(クリードの続編も最近決定した やったね!)
そういえばアイカツシリーズってかなりロッキー的だよなと。アイドルにとってステージパフォーマンスが最重要なのは勿論だけどこのシリーズが何よりも描こうとしてきたものはトレーニングやメンタル部分つまりセルフプロデュースなんだよね。
ただがむしゃらに気持ちが乗らないトレーニングを続けても効果は薄い。トレーニングの前にステージにおいて自分が何を表現したいのかどういうアイドルになりたいのかそういうメンタル面に着想を得てはじめて効果的なトレーニングが出来るわけで、着想を得た後の清々しい表情で走るアイドルたちの姿にこそエモが詰まっていたわけです。
トレーニング部分がストーリーのエモである構造はまさにロッキーそのものでアイカツが丸太やタイヤ、ノコギリなどやたらと古風なモチーフを使いたがるのは昭和ギャグに留まらずロッキーからの着想もあったのだと思います。桜庭ローラといえばロックだしね!
そうした万全のセルフプロデュースによって86話を走り抜けた挑戦者 桜庭ローラはしかし王者 エルザ フォルテ負けてしまう。ただ、この戦いは桜庭ローラvsエルザ フォルテだけのものではない。
86話の代弁者こと前川綾乃さん(cv佳村はるか)顔も声もありえん良い
この勝負だけがアタシの勝負じゃない
まだまだこの先もずっとマラソンをやっていきたいから あえて逃げないことにした
私も負けず嫌いだからね負けたくないの 弱い自分に
そうこれは弱い自分と自身の未来のための闘いでもあった。
王者は試合に勝った。挑戦者は勝負に勝った。
桜庭ローラは敗れたが自身の殻をまたひとつ破ったしその想いは前川綾乃へと伝播していった。
桜庭ローラは負けを知る偉大な王者 如月ツバサから星を受け継いだ女だからね。
何度でも立ち上がるし月だって地球だって救えるさ。
(「星を継ぐもの」のタイトルは継げなかったが汗)
ここからスターズ!全体の話
まだ見ぬ私のことを 信じてくれるひと
(MUSIC of DREAM!!!)
私でさえ 知らない 私に出逢いたいの(Forever Dream)
"私"と"私のことを信じてくれるひと"との相関関係により"新しい私に出逢う"ことこそアイカツスターズ !のキモである。
そして誰かを信じ導くことを担っていたのが先代S4でありそれを受け取った現四ツ星二年生組がこの相関関係が生み出す力を花園きらら、双葉アリアやまだ見ぬ人々に影響を与えている。
歪ではあるが騎咲レイもまだ見ぬエルザ フォルテを信じている者であった。
そんな変わり始めたVA組の中でも今回明らか異質に描かれたのが"私"の存在しか示されなかったエルザ フォルテ。もはや彼女が手を差し出す相手は見当たらず自分のアイカツがすべて自分に帰結すると考えているがすでに孤高の頂点を極めてしまった彼女が辿る道はもう墜落しかないのか…
他校や他業種関係なく志を同じくするものと寄り添い高め合う四ツ星アイドルはギャラクシースターライトを望む、対するは 孤高の月
最後に微笑むのは?
アイカツスターズ !から目を離すな
偶像崇拝のカウンターとしての騎咲レイの誓い!
アイカツスターズ!第80話「騎咲レイの誓い!」がなんまら良かったので書く。
「騎咲レイの誓い!」では ”アイドル騎咲レイ”の目的はファンや自分のためにあらずエルザのためにあるという女児向けアニメではおよそ語られない様なテーマをぶち込んできたわけだけど、七倉(私の夢はゆめちゃんと共にある)小春ちゃんの在り方といいアイカツスターズ!というアニメはアニメ的なお約束から逸脱した本当にキャラクターの感情に誠実なアニメだと思います。
ファンとアイドルの在り方についてデリケートなテーマを扱った本話でしたが騎咲レイなりにファンへの筋を通したステージだったことは言及しておきたいです。
これはシューティングスターとして数年ぶりの復活ステージではなく”アイドル騎咲レイ”としてのステージだった。
もちろん噂を聞きつけたシューティングスターのファンも海を越えやって来ていた訳だがそれはファンの都合でしかない。新人アイドルとして彼女はステージ冒頭で”アイドル 騎咲レイ” としての所信表明を行っておりそれを受けて見限るか応援するかはファンの勝手である。 これまでファンに支えられ活動してきたアイドルが急にたった一人の為に歌いますとか言いだしたら暴動必死だが、きちんと筋を通した騎咲レイには好意的に受け止められアイカツランキング(死語)5位にまで登り詰めた。
”アイドル 騎咲レイ”はアイドルである前にエルザ フォルテに惚れ込んだ ”私人” であるという表明のための第80話であった。
”私人”としてのアイドルキャラクター
面白かったのが ”エルザのために” という表明により嵐の様に騒めく観客に向かってレイが 「キミたちは嵐に立ち向かったことがあるかい?」と問う場面だ。
これは実際に困難に対峙する当事者(アイドル)と傍観者(ファン)との絶対的な隔たりを含ませた問いと受け取れる。
アイドルがファンのためのステージと言及することは勿論素晴らしい心構えでありレイは四ツ星2年生組がそうであるというスタンスの違いを確認しに四ツ星に訪れていたが、アイドルの個人的な想いももちろん尊重されてしかるべきである。
80話は実際の困難に対峙し努力してきたアイドルの私情について掘り下げされた稀有な回であったように思う。
アイドルアニメ偶像崇拝へのカウンター
全てのジャンルに通ずる所だけど何か偉そうなファンやオタクっているじゃないですか?
金を払ってやってる、存在を周知してやってるみたいな
でもね、「ファンのために尽くせ」みたいな言及はファン側からは絶対に言っちゃいけない言葉。そのアニメやアイドルの筋の通し方、在り方に納得がいかなかったらさっさと離れるべき。
アニメとアイドルって理想の押しつけというか偶像崇拝の気が強いと感じるジャンルであり特にアイドルアニメなんて最たるものじゃないですか。視聴者に向かって媚を売り続ける虚無アニメを許すな!(それはそれとして楽しめればいいんだけどね)
そんな偶像崇拝の象徴たるアイドルアニメのキャラクターも複雑な感情を持つ私人でありそれぞれの感情を抱きながら生きている。自分を輝かせるために進み続けろと語りかけてくれているのがアイカツ!でありそれぞれの在り方について更にブラッシュアップをかけたのがアイカツスターズ!の大きな特色になっていると思う。
レイからの問いかけにドキッとしてしまった我々はやっぱり自分の仕事(役割)を頑張るしかないんだよ。
『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』のテーマ解説と、分かり合えなさが共有される危うさについて
はじめに
本稿の目的は酷評者の9割以上が理解出来なかったと思われる映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の簡易的なテーマ解説と、この作品を理解出来なかったことや楽しめなかったこと全てを作品の所為にして批判し、SNS等で簡単に拡散共有される危うさを明らかにする事だ。
物語の核心にも触れるので映画『打ち上げ花火〜』をすでに見た人向けの話になるが、創作物全般に対峙する上で自覚しておくべき話でもあるので多くの人に読まれて欲しいと思う。
そもそも映画批評で心がけるべきポイントやテーマを見にいくものではないという話は伊藤計劃氏が簡潔にまとめているのでそちらを読んで頂きたい。
本稿は上記の焼き増しでしかないがその上でテーマを理解出来なかった(しようともしなかった)人がいかに本作に泥を塗っているのかを『打ち上げ花火~』のテーマを踏まえて書いていく。
『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』のテーマとは?
思春期を扱った作品
本作は「子供から大人へ、複雑化する自身の感情や世界の仕組みとはじめて対峙するひと夏の物語」だといえる。うーん、分かりづらい!「好きな子といつまでも一緒にいたいと願うはじめての強い衝動とそれは叶わないものだと知る少年少女ひと夏の成長物語」
………しゃらくせぇ、
青春だよ青春。
大抵の子供は十代前半に思春期を迎え思考が複雑化し大人へと変遷していく。例えば思春期以前の恋愛感情はふわふわとした漠然な感覚的なものといえるが、思春期以降の恋愛は相手を性的に意識したり社会的な利害関係を求めたりと自我の発達と共に生々しいものへと変遷していく。また、幼少の頃はただ泣いて悲しむしかなかった引っ越し等家庭の事情などについても、自我の成長と共に現状を打開出来ないか具体的な行動を起こしてみたり考えを巡らせるようになる(→そしてどうすることもできない子供の無力さ知る)。そういった過程の中で家庭ごとの事情の違いや自分の周りの世界を知っていき相対的に人格が形成されていく。感覚的だった子供時代から理性的な大人へと成長していく。
思春期初期というのは原体験とか初期衝動とか行動原理とかそういうものと出会う時期だ。本映画の公開にあたって岩井俊二が書き下ろした、本作のプロトタイプ的な小説のタイトルは『少年たちは花火を横から見たかった』だ。
ちっちゃな子どもにとって、別れは死別に近いほどつらく苦しいものだった。拾った子猫が死んだ時は涙が止まらなかった。なずなもぼくももっと幼い子どもだったら、転校なんて嫌だ嫌だと駄々をこね、おいおい泣いたことだろう。そんな感受性が次第に失われて大人というものになるのだとしたら、あの夏は、ちょうどそのはじまりの季節だったのかもしれない。
本作が思春期以前の話なら泣いて悲しんで駄々を捏ねるだけで終わった。しかし彼らは着実に大人に近づいていて、まだまだ不定格な自分の感情に折り合いをつけながら大人の世界に対抗しようとする。
思春期のはじまりの不定格さは安曇祐介によく現れていた。個人差があるにせよこれくらいの年代の人格というものは交友関係の中で役割的に発生するもので、明確な強い自我を持つ子供は少ない。
なずなと花火大会の約束をした祐介はなずなへの恋愛感情と友達との関係を天秤に掛けた結果、なずなとの約束をすっぽかすだけでなくあんなブス好きなわけないだろと誤魔化すので精一杯だった。しかし違う世界線の祐介はなずなと抜け駆けした典道に対して本気で怒るという真逆の反応を見せる。
そういった不定格さこそ中学一年生であるといえるのに、そういう感情を忘れてしまった人が祐介がチグハグ過ぎてムカつくなどと講釈を垂れる。本作では不定格さを抱えながらもなずなと逃げる道を選び取った典道こそヒーローになりえた。
身長差が気になって仕方なかったという意見も見たが本作が思春期初期を扱っていることはキービジュアルにも現れている。
身長差を強調した特徴的なキービジュアル
典道は下手海側 なずなは上手線路側
二人の力関係や別れが示唆されている
(C)2017「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」製作委員会
成長期は一般的に女子の方が先に来る。
小学校高学年〜中学一年生くらいの時期は精神的にも体格的にも女子の方が成熟していて男子からするととても大人びて見える。及川なずなはそういうイメージを強調し具現化したキャラクターであり、低身長で童顔の典道との対比が際立つ。
なずなの場合複雑な家庭事情により周囲より早く大人に近づかなければならなかったので、その大人びたミステリアスさに加え口紅を纏った姿は神々しくさえあり、中学一年生の憧れの対象としてこの上ない魅力を放つ。
しかしそれほど大きな憧れに見えた及川なずなも母親の前ではただ助けを求めるだけの無力な子供に過ぎなかった。
典道ははじめて世界の大きさを知る。
抗えなさと空想世界
「抗えなさ」という要素は「思春期の逃避行」に自動的に付随する要素であるが酷評意見の多くが理解されてないので説明する。
物語の進行と共になずなと典道の逃避行が始まる。しかしお金、知識、法律、身体能力… 様々な観点から抵抗を試みても中学生は親の離婚や転校といった大人の都合や社会のシステムから逃れることは出来ない。なずなはどうすることも出来ないことを理解した上でそれでも抗いたいという意志を他の誰かに賭けることしか出来なかった。
(ナズナという植物の名前の由来の一つが、夏になると枯れること、つまり夏無)(ナズナの花言葉は「あなたに私のすべてを捧げます」)
この「抗えなさ」という物語上の仕掛けを理解していない人ほど話についていけなくなったと思われる。正直どこからどこまでが空想かなんて舞台装置の問題はこの物語を読み解く上でさして必要ないというかタイムリープ自体全て空想といって問題ないだろう。
この映画の原案といえるTVドラマ版『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』が放映された番組枠は「if もしもシリーズ」というもしもの世界の人間ドラマを取り扱ったものであり、もしも部分の謎解きというSF的な仕掛けに関しては取り合わず、あくまでもそういう舞台設定の中での人間ドラマを描いたものだった。
シャフト特有の過剰演出によって謎解き要素を煽っていた感は否めないしおそらく観客のほとんどが『君の名は。』の様なダイナミックなストーリーやどんでん返しを期待していたのだろう。実際そういったマーケティングをしてしまっていた感はある。
ライト層が映画や物語に求めているものは登場人物の繊細な感情の揺れ動き、みたいなものではなくダイナミックな映像やどんでん返しに代表される物語的な面白さだろうから、そこを履き違えてしまったのは製作陣の失敗だったと思う。
反時計回りの風力発電機…決してカップインしないゴルフボール…「抗えなさ」が確定しているシチュエーションの中タイムリープを重ねるごとに空想の度合いが増していく。TVドラマ版の監督であり原作小説の著者である岩井俊二はこの物語のモチーフが『銀河鉄道の夜』であると述べている。
『銀河鉄道の夜』はカンパネルラの死という逃れられない事実が確定している空想的な世界の中で目的を見出そうとする物語だ。「抗えなさ」が確定している世界だからこそ、それでも抗おうとする少年少女唯一の抵抗手段である空想世界の煌めきがタイムリープを重ねるにつれてより美しくなっていきそ、その美しさがどうしようもなく悲しい。
空想の電車に乗り込んだ二人は夢を語り、愛を歌う。ここにエモを見出さずに何を感じ取るというのか?
TVドラマ版の小学生のなずなと典道は電車には乗り込まず二人の逃避行は未遂のまま終わってしまうのだが、意図的に年齢設定を上げた本作では二人の逃避行は空想的な世界で成就され、銀河鉄道の夜やシンデレラといった空想度を強調したアニメならではの演出により意義のあるリメイクになったと思っている。ここの評価の捉え方が決定的な賛否の分かれ目だろう。
曖昧な心を とかして繋いだ
この夜が続いて欲しかった
パッと花火が夜に咲いた
夜に咲いて 静かに消えた
離さないで もう少しだけ
もう少しだけ このままで
繰り返すがこの物語ははじめから添い遂げることは目的にしていない。ただこの夜(空想)が続いて欲しかっただけ。それでも前に進むことを誓い合った少年少女は時計の針を戻さなくてはならない。それはあくまで空想的な出来事だったのかもしれないがその時抱いた感情はこれからの二人の原動力となるだろう。
こうして空想世界から一歩踏み出した現実世界に戻った二人の姿は提示されず、彼らがこれから何を選び取るかは観客に委ねられる。同級生たちよりほんの少し大人に近づいたなずなと典道の一夏の物語。
『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』はそういった作品であった。
閑話休題 テーマを語るな
ここまで『打ち上げ花火~』のテーマを語ってきたわけだけど頼まれてもないのにこの映画のテーマはこれこれこうでここにエモを見出してなどと説明するのはあまり褒められた行為ではなく映画や多くの作品はそれぞれ個人が抱いた解釈に委ねられるべきものであります。
しかし『打ち上げ花火~』に関してはあまりにも何も持ち帰ることが出来なかった人間が多くそのまま最低の映像体験として嘲笑の対象にされるくらいなら説明をつらつらと重ねて少しでも何か感じ取ってもらえることのほうが何万倍も意義があると思うので書いているわけ。
分かり合えなさが共有される危うさについて
最後になるがここからが本題。今この作品に対する酷評がネット上で晒され共有されている。なぜそういう事態になったかというと酷評者のほとんどが作品テーマを理解出来なかった(しようともしなかった)からである。
作品のテーマや演出の意図が理解できなかった人が吐き出す感想というものは、作画やキャストの演技や説明の足りなさや感情移入がどうとかいう印象論や感情論になることがほとんどだ。印象しか語り口がないからとりあえず気に食わなかったものをこき下ろす。
そしてそういう印象論や感情論は自分語りにしかならない。それは映画を理解できなかった自分への弁論であって映画のことを語っているわけではない。
理解出来なかった自分を認めたくなくて同調圧力に訴えかけるだなんて、なかなか出来ることじゃあないよ(笑)
過激な言葉遣いになってしまったが作品テーマを理解出来なかったことを非難しているわけではない。伊藤計劃氏が仰られた通り”映画を観て得られるものは、その人の感性や知的レベルに合ったものでしかない”のでそれを責めるのは酷だ。意味が分からなかったから楽しめなかったという意見は至極真っ当である。しかしそういった自分の理解の及ばなさを棚に上げた上で製作者や演者に対して文句や誹謗中傷を垂れ、分からなかったもの同士嘲笑し合い己の自尊心を保つという行為が最悪だといっているだけだ。
これは映画感想の話に限らず、人に共有したい強い感情こそ理路整然と客観視に努めなければならない。一個人の自意識に社会的な正当性などないのだからこそ、自分の考えを客観的に整理して多くの人や社会に対して伝わる様に努力しなければならないよ、と言うのはそんなに厳しいことだろうか。
身内コミュニティーの中悪口で盛り上がったりするのはどこにでもある人間の営みであるけれど、わざわざ映画レビューサイト等に肥大した自意識の自分語りを書き込み社会に投げつける人間の多さたるや。
「ストーリーの意味は分からず演者の演技は下手に感じキャラクターにも何も魅力を感じなかった、私にとって0点」なんかは立派な意見だし感想だ。その人が魅力を感じなかったのは客観的事実である。自分の意見を述べるとき、あくまで自分の意見ですがと前置きすることの大切さたるや。
ただ、自分が理解できないものを見せられた多くの人はどうしても、
「こんな意味不明なもの作った奴も楽しめる奴も頭おかしい」
「こんな作品に感情移入出来るはずがない」
などと大きな主語を用いて感情的で否定的な言葉を並べて怒ってしまうわけだし、それが作り手や演者や楽しめた人たちへの人格否定にまで及んだりするから手がつけられない。
他者の心情を知る術を持たない私たちはせめてもの相互理解に努めようと自分の考えや相手の考えを推し量りながら相互理解に努めようとする。
しかし、自分の中の分からなさを解釈せずそのまま他者や社会に投げつけるのは思考停止であり相互理解からもっとも遠い行為である。
自分の中の分からなさの責任を他者や社会に押し付けるな。それは分かり合えなさの共有でしかない。
さらに『打ち上げ花火~』のケースではそういう分かり合えなさが並べられたスクショを無責任な第三者まで巻き込み拡散共有され嘲笑される事態に陥っていたので地獄絵図かと思い笑ってしまった。
私たちは分かり合えないんだということがインスタントに共有される社会など信じたくないしそういうものに警鐘を鳴らしたかったのが本稿を書こうと思った動機である。
作品解釈は人それぞれ無数に存在するその人の写し鏡だ。願わくば作品などを通してそれぞれが自分の解釈を語り何が好きで何が嫌いか。皆違うがそれぞれの考えや事情を抱えて生きているんだという相互理解の助けになるような社会になって欲しいと思う。
感情をアウトプットする営み
『少年たちは花火を横から見たかった』のあとがきで岩井俊二は自身の創作衝動(初期衝動)は中学生くらいの時代の言葉にならない感情や懐かしさを再現すること、そのために小説を書いたり映画を作ったり音楽を作ったりしていると語ってた。強いクリエイターたちはそういった創作衝動を抱えながら自身の感情や感性をアウトプットし創作を続けている。
個人的な話をすると一年くらい前までは私人がTwitterやらブログをやる意義がよく分からなかった。一個人のさして物語性とは無縁の感性を社会に投げつける行為に何の意味があるのかよく分からなかった。
しかし素晴らしい作品や解釈に触れる機会が増え、少しずつ自分なりの言葉をアウトプットする機会を重ねるにつれ自ずと伝えたい言葉が増えていった。同じ作品を見たとしてもその時期によって解釈は変わっていくしそういった感覚の変化を客観視してアウトプットすることが自己深化となり自身の人間的な成長に繋がっていると思えるようになってきた。
本稿を書き始めたのは無責任な批判への憤りが動機だったけど改めて本作に対するアウトプットを重ねたことにより本当に好きな作品だなぁと思ったし、作品理解度をさらに高めることが出来たんじゃないかという実感があります。
そんなこんなで最後になりますが本作について言いたいことは、
ありえんくらいテーマもモチーフも好き、大好き。
自分の好きなものを自分の好きな言葉で語るのってとても素敵なことですよ。だから自分の感性をアウトプットする営みをやっていきましょう。
『マンチェスター・バイ・ザ・シー』 〜作品が自分の一部になるということ
予告編になんとなく惹かれ見たケネス・ロナーガン監督作品『マンチェスター・バイ・ザ・シー』があまりにも素晴らしく、触れてから数週間経ったにも関わらず余韻が強いのでここでひとつ自分のためにまとめてみる。
核心に迫るネタバレはなしで個人的な見解を述べていく。
(すごく簡単なあらすじ)
ボストン郊外に住む主人公(リー)は兄の死をきっかけに故郷のマンチェスターバイザシ―(アメリカ東海岸の町)に戻り兄の息子(パトリック)や周囲との関係性の中に自分自身そして過去にこの町で起きた因縁と向き合っていく……
あらすじの通り地味で静かな話だ。
映画的な語り口は一切なくカメラは主人公リーをとりまく状況をただ傍観する様に静かに映していくいくだけ。
自分は演出に関してあまり明るくないがそれでも文脈と映像で語るという作業が徹底されている、とても繊細な作品だと感じた。
リーの行く先々ごとに思いを馳せるように自然に挿入される回想の数々、リーの焦燥感が高まり視野が狭くなっている場面では主観視点に切り替わったり、食事場面でわかる心の距離、同じ意味合いの台詞でも人やシチュエーションでまったく違った意味が生じるユーモア等々きめ細かい。
特に印象的なのが上手下手(左右)の使い方でリーが故郷で経験した因縁が起きた日の回想で事件が起こるまでは横から平面的なアングルで撮り続けているが、いよいよ決定的な場面に遭遇したとき映像は忽ち立体的となりリーは奥に進んでいく。そしてその現実のあまりの痛みにただ茫然と立ち尽くしその深淵に取り残されてしまうのだ…
パトリックとの交流や周囲との関係、全てが繊細な感情に包まれていて派手な物語性は殆どなくとても重たい話だが、この作品でしか伝えられない美しさがあった。
特に最後の2シーンのリーとパトリックの画にこの映画の意味が詰まっているといっても過言ではないと思う。画が語るとはああいうこと。
パンフレットの監督のインタビューを読むに、キャラクターに寄り添った脚本作りを強く意識されているのがわかる。
「気に入ったアイデアがあったらキャラクターの置かれた状況を考える。そして、そのキャラクターの状況からその周囲に向かって、物語世界を構築していく。」
監督が取り扱っているのは物語というよりキャラクターそのものだ。
キャラクターの"在り方"や"生きざま"がそのまま物語となる。
僕は映画を見るようになってまだ浅いので最近の作品しか挙げられないが、『聲の形』や『ムーンライト』、グザヴィエ・ドラン作品のようにキャラクター自身とその繊細な感情や文脈を取り扱った作品にこそ強い感銘を受けている。
本作を見るまで今年のナンバーワンに推していた『SING/シング』で一番好きな場面は所謂 "洗車"のシーンで、あれは言葉やドラマチックな展開ではなく主人公のひたむきな生きざまそのものが友人のニートを突き動かすだけの力になった。
監督を絶大に信頼できると思う大きな点がもう一つ、彼の映画に対するスタンスだ。
「映画作りで僕が好きなのは、僕自身のプライベートな想像力のもと生まれた物語が、他人の感情の所有物となるというプロセスだ。(中略)僕の愛する映画が、僕の一部になったように。」
いや、もうほんと信頼というか創作に対するスタンスとして完璧過ぎて…
少なくとも本作や上に挙げた作品たちをこれからも愛していきたいと思ってるし、今このようにブログに思いを書き綴っていることこそ作品を自分の一部にしていくための一つの作業になっているんだと思う。
ミニシアター中心の映画だけど是非各々がこの作品を見届けそれぞれの大切な一部になったらいいなと思う。
アイカツスターズ!への感謝と個性について
”去年の今頃と まるで 違う景色なの” 『スタージェット!』より
TVアニメ版アイカツスターズ!一年目の放送が終了しましたがアイカツスターズ!には本当感謝しかないのでつらつら書き綴っている。
『スタートライン!』のOPを初めて見たときSHINING LINE*から繋がる映像、歌詞、せな・りえの声、全てが完璧でその時点で信頼しかなかったのですが、去年の今頃は無印!より大切な作品に成り得るとは思ってなかったよ。
TVアニメ版アイカツ!シリーズのテーマというと、
「あこがれは力」「踏み出す勇気」「セルフプロデュース」「高め合う仲間」「つながるバトン」「ゴールはスタート」みたいな感じでしょうか。
『SHINING LINE*』
『START DASH SENSATION』
『スタートライン!』
『スタージェット!』
など作中特にメッセージ性の強い楽曲群は同じようなテーマを繰り返し伝えている。
星のツバサ編新OP『STARDOM!』でも。
そういうアイドル活動や人生における大切なテーマをアイドル達の”個性”と”未来向きの今”を紡いだものがアイカツ!シリーズなんだと考えていますが、無印!ではファッションブランドというその人の趣向や文化を反映するモチーフがありそれを軸に物語を紡いでいました。
一方スターズ!はブランドに関してはあまり大きく扱わずキャラクターの個性そのもの(ルーツやバックボーン)で勝負してきた。これが無印!とスターズ!の大きな違いだといえる。
例えば藤堂ユリカがゴスロリ好きの吸血鬼キャラというのは個性の中でも表面的な部分、属性的特徴だといえる。ユリカがロリゴシックのドレスや吸血鬼の漫画から貰った勇気を自分の中に落とし込み一歩踏み出した背景そのものが、その人の本当の個性だといえるのではないか。
スターズ!のキャラクターは己のバックボーンと強く対峙している。
それぞれがアイドルを志した背景
虹野ゆめは憧れのひめ先輩に近づくに至り先輩の抱える呪いとも対峙しなければならなかった。
桜庭ローラは道に迷ったとき自身の音楽のルーツである実家での特訓をやりきった後新しい師の元で飛躍した。
香澄真昼はずっと姉と対峙し続けたことでその想いを理解し自身の成長で返した。
早乙女あこは自身も熱心なアイドルファンであるが、自分の熱心なファンの言葉に向き合うことで強くなった。
そして自分の行動原理がはっきりしている白銀リリィだけがそのモチーフを形にするべく新ブランドを立ち上げようとする。実に筋が通っている。
先日MF2017の時に話した方と、
”桜庭ローラは個性について考え始めた時点で優勝なんだよなぁ”
みたいな話をしましたがまさにその通りで、自分の行動原理について考えることこそが個性になるしそういうのを踏まえている作品はすべからく素晴らしい。アイカツスターズ!は素晴らしいのです。
メインキャラクター以外も特徴的でした。
自分にとって最高の成長の場でないと感じたら組み替えや転入も厭わない展開(ツバサや小春)。
明らかな身体的ハンデを抱える白銀リリィやゆめにオーラを消されたローラなど才能の優劣を明確に示す姿勢。
自分が最高の地位にいれずとも人の為尽くす幹部生の在り様(特に後輩を暖かく慕う桂ミキ)。
教育者である前にひとりの大人として子供を身体の危険から回避しようとする不器用すぎる諸星ヒカル。
モブキャラも一人一人外見の特徴だけでなく少ない台詞の中からもその人となりが想像できるようなキャラクター作りがされていて、本当にキャラクターや世界に対して誠実な作品なんだなぁと感謝の気持ちでいっぱいです。
”来年の今頃 どんな 景色見つめてる?” 『スタージェット!』より
星のツバサ編も期待しかないでしょう!
小春ちゃんがイタリアに行った時点でいずれは世界編かなぁとは思ってましたが、まさか海賊船が来襲するとは⁉︎
パーフェクトアイドルかつ海賊王であらせられる エルザ フォルテ(様)
イタリア系の名前らしい
ニュージーランド産ヒツジ系ふわもこアイドル 花園きらら
腹黒説が濃厚
秘書じゃなくて騎士でしょ!
アイカツ!初?の男性的モチーフのイケメンアイドル 騎咲レイ
女児アニも時代はヅカ系
まだまだ面白いモチーフは沢山あって世界は広いな〜と楽しみしかないし何より新OP曲の『STARDOM!』が良すぎてOPだけで優勝できそうなんですよね…
”憧れは次の 憧れを生む わたしはここだよ
震えるような 高みへと 夢は 夢を 超えていく
きれいな物だけ 見るんじゃなくて 全部抱きしめて
光はもっと遠い空 願いは負けたりしない
本気の君を待ってる” 『STARDOM!』より
「ごきげんよう、ジャパン」 面白いじゃない!!
アイカツ!が示したもの、アイカツスターズ!が示そうとしているもの
アイカツスターズ!29話が素晴らしかったので綴ってみる。
アイカツ!シリーズには2つのテーマがあると思う。
ひとつは「憧れが原動力になる」ということ。
憧れ(目標)が存在することで近づきたいと頑張ることが出来るし、目標を通して自分がどうなりたいか考え努力することがそのままアイドル活動だといえる。
もうひとつのテーマは「継続の大切さ」。
目標に近づくためには努力し続けなければならないし、目標を達成してもそこはまた新しいスタートラインだということをこの作品は繰り返し伝え続けている。
アイドルを通じてそのようなテーマを盛り込んだ”未来向きの今”を伝える物語がアイカツ!であり、スターズ!も間違えなくその流れを汲んだ物語になっているが、アイカツ!とスターズ!では見せ方に大きな違いがある。
アイカツ!はアイドルと”文化”を軸に物語を展開していた。
アイカツ!の最大要素であったブランドとはライフスタイル(文化)の象徴であり、キュートやクールの様な属性分けからクールの中でもロックやゴシックやダンス系などに細分化されそれが各アイドルの特徴になる。2期以降はボヘミアンやチロリアン、フラメンコ、和風など国際的なモチーフが増え、4期では日本全国の文化に触れる旅をした。
それぞれの文化の象徴であるアイドル達が登場し、高みを目指し合うのがアイカツ!の構造になっていた。
紫吹やひなきの様にブランドのミューズになる為に、プレミアムドレスをもらう為に頑張る話が沢山あり、そのような開かれたチャンスでのアイドルの成長が物語の要であった。なのでプレミアムドレスを手に入れてからの大会は勝つことが全てではなく、それぞれが高みを目指すための場であり、敗者も勝者も讃えられる美しい構造になっていた。
”文化”を通してアイドルや世界の在り方を示したアイカツ!とは異なりスターズ!が目指していると感じるのはより”個性”に迫ること。”文化”(ブランド)はその人の好きなモチーフが散りばめられた個性の象徴だといったが、さらに根源的な”個性”を見つけようというのがスターズ!の命題だと思う。だから白鳥ひめはオリジナルブランドを作ったし白銀リリィもオリジナルブランドに拘っている。響アンナ先生はローラに大事なのは”個性”だと伝える。
スターズ!の世界の一番の特徴はS4システムにある。ひたすら高みを目指し讃え合うアイカツ!と違いスターズ!では最高の舞台(S4)の枠がはじめから定められており、舞台に上がれる者とそうでない者がはっきり分かれる構造になっている。アイカツ!では方向性が間違っていない努力は報われるべきだと伝えていたが、スターズ!の21話や29話では正しい方向性で努力を重ねたローラがゆめの才能に完敗する様を見せつけられるハードな回だった。そういう才能の差や白銀リリィに示される体力面の差、世界は平等ではないということをスターズ!は意識させる構造になっている。
スターズ!29話で象徴的なシーンがある。
アンナ先生が花畑の前でローラを激励するこのシーンはスターズ!が描こうとしている”個性”や可能性の広がりを予感させる素晴らしいカットだと感じた。これを見たときにスターズ!は本気で「世界に一つだけの花」の物語を展開する気なのだと気付き泣いてしまった。
スターズ!は全てが平等ではないそんな当たり前の世界の中で、自分の”個性”と向き合い本当の”夢”を見つける。そんな物語になると思う。スターズ!のメインキャラである一年生組が本当の夢、本当の個性と向き合い始めるのはこれからだ。
『レッドタートル ある島の物語』三様の生を示し、未来へと繋げる物語
『レッドタートル ある島の物語』を観賞しました。
予備知識なしで観たので、先入観のない自分なりの考察をまとめてみたいと思います。
ネタバレを含むので避けたい方はお戻り下さい。
ある孤島にひとりの男が漂流した。
男はとりあえず資源を食いつぶしながら生を繋ぐが、とにかく逃げ出したいという思いからイカダを作り脱出を図る。
しかし、何度脱出を図るも何らか自然の力によって阻害され、それがレッドタートルの仕業だと知る。
男はある日レッドタートルが孤島の浜を這っているのを発見するとこれまでの恨みの元殺してしまう。
ここが転機となる。
イカダでの脱出が阻害されていたのは、男にとってのそれは現実逃避でしかなく明確な生きる意思の元行われたものでなかったから自然が許さなかった。
それに気付かない男はレッドタートル殺しの罪を背負うがその命の重さに気づいた時発狂し、レッドタートルは人間の女へと変化する。
女の姿へと変化したレッドタートルは男が自然を敬うにつれ距離を縮め、自然を受け容れここに生きるのを決めた時はじめて手を取り合う。
やがて産まれた息子は人間と自然(亀)の子供。なのでお互いの性質を持ち合わせている。
自然を敬いながらも人間の知識を使い豊かに暮らしていく家族。
しかし自然は受け容れるかに関わらず破壊と再生を繰り返すもの。島を襲った津波によって築き上げたものは簡単に壊されてしまう。
壊されたものは大きいが生きていれば少しづつ再生をさせる事も出来る。家族は少しづつ元の生活を取り戻していく。
そんな折息子は昔漂流してきた空き瓶(文明の象徴)への想いが募っていき孤島から出ていくことを決意する。
この息子の意思を自然は受け容れ外界へ旅立っていく。
年老いた男は孤島で人間としての生を終える。
それを見届けた女は自然へと還っていく……
人間(男)、人間と自然のハイブリット、まだ何者でもない(息子)、自然・亀(女)
三様の生を示した上で外界へ旅立った息子が何者になり何をもたらすのか、未来への希望に満ちた物語だと私は受け止めました。
何故この作品が日本で、ジブリで作られたかといえばやはり3.11があったからでしょう。
この様に前向きな生を示してくれる映画が大好きですし『レッドタートル』は素晴らしい作品だと思います。
しかし無粋なことをいえば、このようにストイックな作品はエンタメ的な面白さに欠けますし興行収入も振るわないでしょう。
私も人に薦められる作品かといわれれば首を捻ってしまいますし、それが少し残念ですね。