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おだやかじゃなかった備忘録

映画『聲の形』感想。相手の顔を見て欲しい、対話はそれからだ

 映画『聲の形』素晴らしい作品でした。

自分の人生における大切な映画の一本になると思います。

 この作品については映画の反響もあり、色々と素晴らしい解説や考察が出回っているので私から伝えられることはあまりないのですが一点だけ、どうしても書き留めておきたい事があるので文章に起こします。

ちなみに原作未読なので映画版の感想ということになります。ネタバレが含まれるので、回避される方はお戻りください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私のようにこの作品に深い感銘を覚える人がいる一方批判的な人も一定数おられ、そこはまあ感性それぞれなので取り立てることではないですが、批判的な意見の中でどうしても憤りが治らないものがあります。

 曰く、

「イジメの被害者が加害者を好きになることなど ”ありえない”。加害者にとって都合の良い美少女を使った感動ポルノだ!」論です。

 私はこの ”ありえない” という言葉の使い方に憤りを覚えます。

 加害者を赦すことなど ”ありえない”、

まして好きになることなどもっと ”ありえない”

そうでしょうか?

 

そもそも西宮は石田を恨んでいたわけではありません。幼い頃から自分の障害、周囲との差異と向き合わなければならなかった西宮は自分が普通学級における異分子だと半分理解しながらも、友達を作ろうと不器用に、執拗に迫る。友達が出来ないのは自分が上手く振る舞えないから。だから加害者を責め立てることをしないが、その不器用さ故石田とのケンカくらいしか本物のコミュニケーションをとることが出来ず転校してしまう。家族に「死にたい」と明かした悲痛な叫びは上手く生きられない自分への失望に他ならない。

西宮の転校後、イジメに遭う事で自分のしてきた事の取り返しのつかなさに気付いた石田も、もうどうすることも出来ない失望感の中に未来を見出せず自殺を計画する。

そんな人間性を持った二人が再び出会った後どのような未来を見出すか、そういうお話です。

 

間違っても「恋愛」や「イジメ」や「障害」が主題ではなく「人間」の在り方そのものがテーマになっているはずです。

それを「イジメ」や「障碍者」という記号的表現にしか関心を示さず、キャラクターの人間性を見ようとしない傲慢さがこんな物語 ”ありえない” という表現を使わせてしまう。

 ”好き” か ”嫌い” かは個人の主観的判断による感想なので自由です。

しかし、”ありえない” という表現はこの物語の世界観の否定であり、物語と共に西宮や石田というキャラクターの人間性が完全に否定されてしまいます。

 

モンスタークレーマーが厄介な理由は、彼らははじめから自分の世界観でしか話をする気がなく、相手の世界観を受け入れる準備がないのでそもそも対話が成立しないことです。

同じ問題が聲の形感動ポルノ論争で起きました。

"ありえない"という表現は、物語の中であれほど不器用ながら懸命に人と向き合っていた彼らの世界を。その在り方を素晴らしいものだと受け取った僕らの価値観を完全に否定してしまうものなので、どうしようもない憤りを覚えたのです。

物語の最後、

人と世界と向き合うことを決意した石田は顔を上げ、

人の顔を見て、

世界の美しさに気付きます。

 

この物語を好きになる必要はないが、自分の考えを、悪意を人にぶつける時はせめて相手の顔をちゃんと見据えるべきだ。

対話はそこからはじまる。