→NOT ODAYAKA!

おだやかじゃなかった備忘録

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』のテーマ解説と、分かり合えなさが共有される危うさについて

はじめに

本稿の目的は酷評者の9割以上が理解出来なかったと思われる映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の簡易的なテーマ解説と、この作品を理解出来なかったことや楽しめなかったこと全てを作品の所為にして批判し、SNS等で簡単に拡散共有される危うさを明らかにする事だ。

物語の核心にも触れるので映画『打ち上げ花火〜』をすでに見た人向けの話になるが、創作物全般に対峙する上で自覚しておくべき話でもあるので多くの人に読まれて欲しいと思う。

そもそも映画批評で心がけるべきポイントやテーマを見にいくものではないという話は伊藤計劃氏が簡潔にまとめているのでそちらを読んで頂きたい。

ぼくとあなたはちがうということ - 伊藤計劃:第弐位相

誰も信じるな - 伊藤計劃:第弐位相

本稿は上記の焼き増しでしかないがその上でテーマを理解出来なかった(しようともしなかった)人がいかに本作に泥を塗っているのかを『打ち上げ花火~』のテーマを踏まえて書いていく。 

 

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』のテーマとは? 

思春期を扱った作品

本作は「子供から大人へ、複雑化する自身の感情や世界の仕組みとはじめて対峙するひと夏の物語」だといえる。うーん、分かりづらい!「好きな子といつまでも一緒にいたいと願うはじめての強い衝動とそれは叶わないものだと知る少年少女ひと夏の成長物語」

………しゃらくせぇ、

青春だよ青春。

 

大抵の子供は十代前半に思春期を迎え思考が複雑化し大人へと変遷していく。例えば思春期以前の恋愛感情はふわふわとした漠然な感覚的なものといえるが、思春期以降の恋愛は相手を性的に意識したり社会的な利害関係を求めたりと自我の発達と共に生々しいものへと変遷していく。また、幼少の頃はただ泣いて悲しむしかなかった引っ越し等家庭の事情などについても、自我の成長と共に現状を打開出来ないか具体的な行動を起こしてみたり考えを巡らせるようになる(→そしてどうすることもできない子供の無力さ知る)。そういった過程の中で家庭ごとの事情の違いや自分の周りの世界を知っていき相対的に人格が形成されていく。感覚的だった子供時代から理性的な大人へと成長していく。

思春期初期というのは原体験とか初期衝動とか行動原理とかそういうものと出会う時期だ。本映画の公開にあたって岩井俊二が書き下ろした、本作のプロトタイプ的な小説のタイトルは『少年たちは花火を横から見たかった』だ。

ちっちゃな子どもにとって、別れは死別に近いほどつらく苦しいものだった。拾った子猫が死んだ時は涙が止まらなかった。なずなもぼくももっと幼い子どもだったら、転校なんて嫌だ嫌だと駄々をこね、おいおい泣いたことだろう。そんな感受性が次第に失われて大人というものになるのだとしたら、あの夏は、ちょうどそのはじまりの季節だったのかもしれない。

*1*2

本作が思春期以前の話なら泣いて悲しんで駄々を捏ねるだけで終わった。しかし彼らは着実に大人に近づいていて、まだまだ不定格な自分の感情に折り合いをつけながら大人の世界に対抗しようとする。

思春期のはじまりの不定格さは安曇祐介によく現れていた。個人差があるにせよこれくらいの年代の人格というものは交友関係の中で役割的に発生するもので、明確な強い自我を持つ子供は少ない。

なずなと花火大会の約束をした祐介はなずなへの恋愛感情と友達との関係を天秤に掛けた結果、なずなとの約束をすっぽかすだけでなくあんなブス好きなわけないだろと誤魔化すので精一杯だった。しかし違う世界線の祐介はなずなと抜け駆けした典道に対して本気で怒るという真逆の反応を見せる。

そういった不定格さこそ中学一年生であるといえるのに、そういう感情を忘れてしまった人が祐介がチグハグ過ぎてムカつくなどと講釈を垂れる。本作では不定格さを抱えながらもなずなと逃げる道を選び取った典道こそヒーローになりえた。

身長差が気になって仕方なかったという意見も見たが本作が思春期初期を扱っていることはキービジュアルにも現れている。

 

f:id:odayakana:20170826221216j:plain

身長差を強調した特徴的なキービジュアル

典道は下手海側 なずなは上手線路側

二人の力関係や別れが示唆されている

(C)2017「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」製作委員会

成長期は一般的に女子の方が先に来る。

小学校高学年〜中学一年生くらいの時期は精神的にも体格的にも女子の方が成熟していて男子からするととても大人びて見える。及川なずなはそういうイメージを強調し具現化したキャラクターであり、低身長で童顔の典道との対比が際立つ。

なずなの場合複雑な家庭事情により周囲より早く大人に近づかなければならなかったので、その大人びたミステリアスさに加え口紅を纏った姿は神々しくさえあり、中学一年生の憧れの対象としてこの上ない魅力を放つ。

しかしそれほど大きな憧れに見えた及川なずなも母親の前ではただ助けを求めるだけの無力な子供に過ぎなかった。

典道ははじめて世界の大きさを知る。

 

抗えなさと空想世界

「抗えなさ」という要素は「思春期の逃避行」に自動的に付随する要素であるが酷評意見の多くが理解されてないので説明する。

物語の進行と共になずなと典道の逃避行が始まる。しかしお金、知識、法律、身体能力… 様々な観点から抵抗を試みても中学生は親の離婚や転校といった大人の都合や社会のシステムから逃れることは出来ない。なずなはどうすることも出来ないことを理解した上でそれでも抗いたいという意志を他の誰かに賭けることしか出来なかった。

(ナズナという植物の名前の由来の一つが、夏になると枯れること、つまり夏無)(ナズナ花言葉「あなたに私のすべてを捧げます」)

この「抗えなさ」という物語上の仕掛けを理解していない人ほど話についていけなくなったと思われる。正直どこからどこまでが空想かなんて舞台装置の問題はこの物語を読み解く上でさして必要ないというかタイムリープ自体全て空想といって問題ないだろう。

この映画の原案といえるTVドラマ版『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』が放映された番組枠は「if もしもシリーズ」というもしもの世界の人間ドラマを取り扱ったものであり、もしも部分の謎解きというSF的な仕掛けに関しては取り合わず、あくまでもそういう舞台設定の中での人間ドラマを描いたものだった。

シャフト特有の過剰演出によって謎解き要素を煽っていた感は否めないしおそらく観客のほとんどが『君の名は。』の様なダイナミックなストーリーやどんでん返しを期待していたのだろう。実際そういったマーケティングをしてしまっていた感はある。

ライト層が映画や物語に求めているものは登場人物の繊細な感情の揺れ動き、みたいなものではなくダイナミックな映像やどんでん返しに代表される物語的な面白さだろうから、そこを履き違えてしまったのは製作陣の失敗だったと思う。

反時計回りの風力発電機…決してカップインしないゴルフボール…「抗えなさ」が確定しているシチュエーションの中タイムリープを重ねるごとに空想の度合いが増していく。TVドラマ版の監督であり原作小説の著者である岩井俊二はこの物語のモチーフが『銀河鉄道の夜』であると述べている。

銀河鉄道の夜』はカンパネルラの死という逃れられない事実が確定している空想的な世界の中で目的を見出そうとする物語だ。「抗えなさ」が確定している世界だからこそ、それでも抗おうとする少年少女唯一の抵抗手段である空想世界の煌めきがタイムリープを重ねるにつれてより美しくなっていきそ、その美しさがどうしようもなく悲しい。

空想の電車に乗り込んだ二人は夢を語り、愛を歌う。ここにエモを見出さずに何を感じ取るというのか?

TVドラマ版の小学生のなずなと典道は電車には乗り込まず二人の逃避行は未遂のまま終わってしまうのだが、意図的に年齢設定を上げた本作では二人の逃避行は空想的な世界で成就され、銀河鉄道の夜やシンデレラといった空想度を強調したアニメならではの演出により意義のあるリメイクになったと思っている。ここの評価の捉え方が決定的な賛否の分かれ目だろう。

 

 

www.youtube.com

曖昧な心を とかして繋いだ
この夜が続いて欲しかった

パッと花火が夜に咲いた

夜に咲いて 静かに消えた

離さないで もう少しだけ

もう少しだけ このままで

 

*3

繰り返すがこの物語ははじめから添い遂げることは目的にしていない。ただこの夜(空想)が続いて欲しかっただけ。それでも前に進むことを誓い合った少年少女は時計の針を戻さなくてはならない。それはあくまで空想的な出来事だったのかもしれないがその時抱いた感情はこれからの二人の原動力となるだろう。

こうして空想世界から一歩踏み出した現実世界に戻った二人の姿は提示されず、彼らがこれから何を選び取るかは観客に委ねられる。同級生たちよりほんの少し大人に近づいたなずなと典道の一夏の物語。

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』はそういった作品であった。

 

閑話休題 テーマを語るな

ここまで『打ち上げ花火~』のテーマを語ってきたわけだけど頼まれてもないのにこの映画のテーマはこれこれこうでここにエモを見出してなどと説明するのはあまり褒められた行為ではなく映画や多くの作品はそれぞれ個人が抱いた解釈に委ねられるべきものであります。

しかし『打ち上げ花火~』に関してはあまりにも何も持ち帰ることが出来なかった人間が多くそのまま最低の映像体験として嘲笑の対象にされるくらいなら説明をつらつらと重ねて少しでも何か感じ取ってもらえることのほうが何万倍も意義があると思うので書いているわけ。

 

分かり合えなさが共有される危うさについて

最後になるがここからが本題。今この作品に対する酷評がネット上で晒され共有されている。なぜそういう事態になったかというと酷評者のほとんどが作品テーマを理解出来なかった(しようともしなかった)からである。

作品のテーマや演出の意図が理解できなかった人が吐き出す感想というものは、作画やキャストの演技や説明の足りなさや感情移入がどうとかいう印象論や感情論になることがほとんどだ。印象しか語り口がないからとりあえず気に食わなかったものをこき下ろす。

そしてそういう印象論や感情論は自分語りにしかならない。それは映画を理解できなかった自分への弁論であって映画のことを語っているわけではない。

理解出来なかった自分を認めたくなくて同調圧力に訴えかけるだなんて、なかなか出来ることじゃあないよ(笑)

過激な言葉遣いになってしまったが作品テーマを理解出来なかったことを非難しているわけではない。伊藤計劃氏が仰られた通り”映画を観て得られるものは、その人の感性や知的レベルに合ったものでしかない”のでそれを責めるのは酷だ。意味が分からなかったから楽しめなかったという意見は至極真っ当である。しかしそういった自分の理解の及ばなさを棚に上げた上で製作者や演者に対して文句や誹謗中傷を垂れ、分からなかったもの同士嘲笑し合い己の自尊心を保つという行為が最悪だといっているだけだ。

これは映画感想の話に限らず、人に共有したい強い感情こそ理路整然と客観視に努めなければならない。一個人の自意識に社会的な正当性などないのだからこそ、自分の考えを客観的に整理して多くの人や社会に対して伝わる様に努力しなければならないよ、と言うのはそんなに厳しいことだろうか。

身内コミュニティーの中悪口で盛り上がったりするのはどこにでもある人間の営みであるけれど、わざわざ映画レビューサイト等に肥大した自意識の自分語りを書き込み社会に投げつける人間の多さたるや。

「ストーリーの意味は分からず演者の演技は下手に感じキャラクターにも何も魅力を感じなかった、私にとって0点」なんかは立派な意見だし感想だ。その人が魅力を感じなかったのは客観的事実である。自分の意見を述べるとき、あくまで自分の意見ですがと前置きすることの大切さたるや。

ただ、自分が理解できないものを見せられた多くの人はどうしても、

「こんな意味不明なもの作った奴も楽しめる奴も頭おかしい」

「こんな作品に感情移入出来るはずがない」

などと大きな主語を用いて感情的で否定的な言葉を並べて怒ってしまうわけだし、それが作り手や演者や楽しめた人たちへの人格否定にまで及んだりするから手がつけられない。

他者の心情を知る術を持たない私たちはせめてもの相互理解に努めようと自分の考えや相手の考えを推し量りながら相互理解に努めようとする。

しかし、自分の中の分からなさを解釈せずそのまま他者や社会に投げつけるのは思考停止であり相互理解からもっとも遠い行為である。

自分の中の分からなさの責任を他者や社会に押し付けるな。それは分かり合えなさの共有でしかない。

 

さらに『打ち上げ花火~』のケースではそういう分かり合えなさが並べられたスクショを無責任な第三者まで巻き込み拡散共有され嘲笑される事態に陥っていたので地獄絵図かと思い笑ってしまった。

私たちは分かり合えないんだということがインスタントに共有される社会など信じたくないしそういうものに警鐘を鳴らしたかったのが本稿を書こうと思った動機である。

作品解釈は人それぞれ無数に存在するその人の写し鏡だ。願わくば作品などを通してそれぞれが自分の解釈を語り何が好きで何が嫌いか。皆違うがそれぞれの考えや事情を抱えて生きているんだという相互理解の助けになるような社会になって欲しいと思う。

 

感情をアウトプットする営み

少年たちは花火を横から見たかった』のあとがきで岩井俊二は自身の創作衝動(初期衝動)は中学生くらいの時代の言葉にならない感情や懐かしさを再現すること、そのために小説を書いたり映画を作ったり音楽を作ったりしていると語ってた。強いクリエイターたちはそういった創作衝動を抱えながら自身の感情や感性をアウトプットし創作を続けている。

個人的な話をすると一年くらい前までは私人がTwitterやらブログをやる意義がよく分からなかった。一個人のさして物語性とは無縁の感性を社会に投げつける行為に何の意味があるのかよく分からなかった。

しかし素晴らしい作品や解釈に触れる機会が増え、少しずつ自分なりの言葉をアウトプットする機会を重ねるにつれ自ずと伝えたい言葉が増えていった。同じ作品を見たとしてもその時期によって解釈は変わっていくしそういった感覚の変化を客観視してアウトプットすることが自己深化となり自身の人間的な成長に繋がっていると思えるようになってきた。

本稿を書き始めたのは無責任な批判への憤りが動機だったけど改めて本作に対するアウトプットを重ねたことにより本当に好きな作品だなぁと思ったし、作品理解度をさらに高めることが出来たんじゃないかという実感があります。

そんなこんなで最後になりますが本作について言いたいことは、

ありえんくらいテーマもモチーフも好き、大好き。

自分の好きなものを自分の好きな言葉で語るのってとても素敵なことですよ。だから自分の感性をアウトプットする営みをやっていきましょう。

*1:少年たちは花火を横から見たかった角川つばさ文庫

*2:岩井 俊二、 永地 著

*3: 打上花火/DAOKO×米津玄師(作詞・作曲 米津玄師/Produced by 米津玄師)