→NOT ODAYAKA!

おだやかじゃなかった備忘録

『リズと青い鳥』映画語りと視点についての話

 

はじめに 〜映画を語るということ〜

リズと青い鳥』と山田尚子について語る前に映像、音楽、文学その他すべての文化芸術や他人と対峙する時の心構え、というと大袈裟なので個人的に大切にしている所感を述べておく。     

この項では『リズと青い鳥』の本編に迫るネタバレなどには触れない。述べることは批評において欠いてはならないと思っている視点についてなので、この部分だけでも多く読まれて欲しいと思う。

 

 最後の挨拶では、種崎が「アフレコ前に監督が説明してくれたことで、私の心にすごく残っている言葉が『すべてのものが傍観者。風も木も空も2人を見守っている。そんな作品です』。観終わったあとにそれをすごく感じた」と明かす。そして「作品を観ていただく方の気持ちや視線もこの作品の一部になるのでは、と思う」「2人のことを見守ってください。じーっと」と上映を待つファンにメッセージを届けた。

【イベントレポート】「リズと青い鳥」舞台挨拶、種崎敦美の止まらない青春語りに東山奈央ら深く頷く - コミックナタリー

 

「すべてのものが傍観者。風も木も空も2人を見守っている。そんな作品です」

ここに注目します。

この物語の当事者は鎧塚みぞれと傘木希美であり、学校・部活モノとして見ても極端に二人だけにフォーカスが絞られた物語構造になっています。そしてそれこそが「響け!」ではなくオリジナルタイトルの映画を作った意味である訳です。

この映画において鎧塚みぞれと傘木希美以外は当事者でなく傍観者。云い得て然りだと思います。

よく、映画の”感想”において登場人物に”感情移入・共感"出来たかどうかが評価基準とされるケースが見受けられますが、これは映画体験において視聴者は傍観者に過ぎない事を強く意識させる山田監督のコメントです。共感出来るかに関わらず傍観者がスクリーンの事象に介入することは出来ないし、出来ることがあるとすればただ見守り何かを受け取ろうとすることだけではないでしょうか。

「作品を観ていただく方の気持ちや視線もこの作品の一部になるのでは、と思う」「2人のことを見守ってください。じーっと」

繰り返しますが映画に対して我々視聴者は傍観者でしかないのでじっと見守り、何かを受け取る姿勢で見守ることが何よりも大切になるのです。

 

鎧塚みぞれ役の種崎さんは完成披露試写会の配信でこの映画について、学生時代同じような体験がありみぞれに強く共感できると仰っていました。しかしそれは特殊なケースでありすべてが共感出来ることや理解に及ぶことばかりではないかもしれないですが共感・共鳴出来るポイントを探しながら二人を”見守って”もらいたい、みたいなことを重ねて仰っていたように思います。

 

多くの映画や歌や文学や文化芸術に触れていると稀に、 ”これはわたしの為の作品だ" 、 "この登場人物はわたしそのものだ” みたいな強い共感性を覚える作品に出会える事があるかもしれません。種崎さんの場合のこの映画がそうであったように。

強い共感性を内包する作品はおそらくその人の心に深く突き刺さりその後の人生も寄り添っていくのでしょう。それは素晴らしいことだと思う。

 

それらを踏まえた上で私が試写会でこの映画をみた時共感性の強い映画であったかと問われると完全にノーです。

そもそも私のアニメシリーズにおける鎧塚みぞれに対する評価は典型的な他人依存的キャラクター。ビジュアルはだいしゅきだけどキャラクター性ははっきりいって嫌いでした。

しかしこの映画で丁寧に切り取られた鎧塚みぞれの繊細すぎる感情の表出。細やかなしぐさや表情のひとつひとつが愛おしく思えたし、この映画を思い返した時どうしようもなく鎧塚みぞれのことが好きになっていました。

 

映画『リズと青い鳥』では、偶々みぞれと希美という二人の女の子の物語として描いていますが、誰の心にでもきっとある、形を変えてでも感じたことがある「思い」を描いた作品だと思います。100人の方がご覧になったら、100通りの感想があるんじゃないかなぁと思うので、観た後にちょっと語らってみたくなる、そんな映画になっているのでは、と思います。どうぞ、公開をお楽しみに。

山田尚子監督インタビュー | 『リズと青い鳥』公式サイト

 

誰の心にでもきっとある、形を変えてでも感じたことがある「思い」を描いた作品だと思います

 キャラクター性や映画全体を見たときに好きになれない部分が多々あったとしても、ひとつひとつの描写を受け止めていけば好きな場面が見つかるかもしれない。どこかに共通項を見いだせるかもしれない。映画ってそういう多面性を持った芸術だと信じています。

少し過激なことをいうと、どうしても気に食わない映画や描写があったとしたらその理由を分析して指摘すればいいだけだと思います。自身の内面の不満を垂れ流す行為は無意味です。

 『リズと青い鳥』の様に無駄な説明を省き多くを映像と音に委ねた、受け取ることに集中力を有する作品に対して"期待と違った"、 "感情移入出来なかった" などの感想がもしかしたら出てくるかもしれないので先に対抗策を打っておくというのが本稿の真の目的であります。

実際試写会の感想を漁っていると、「高校生にもなって鎧塚みぞれは他者依存し過ぎではないか」だとか「みぞれと希の関係は友情を超えているのでは?」みたいなへっぽこな事をいってる人が実際にいて、それはそういう人間や関係性を描いた映画としかいいようがないんですがなんでしょうかこういう、自分の理解を超えるモノにまともに対峙出来ない姿勢は。

 自分が理解出来ないものに対して否定的・感情的になってしまうのは発想が幼稚だからです。

道理が分からない事象に対して自分の気持ちを整理できない。コントロール出来ない自身の不機嫌さを何かの所為にしてしまいたくなる。

そういう情報処理の仕方は子供的な特徴であり世界を知り自分を知り受け止められるものが増えて大人になっていくはずですがいつまでも幼稚なままの大人も少なくないですし、こと映画に関しては時間とお金を消費しているという免罪符を掲げることによって平気で文句を言ってもよいと考えている人が少なくないようです。

"面白くなかった" や "理解できなかった" という感想はその人にとってはそうでしかないのでそれを悪くいっても仕方ないですし自身のコミュニティーの中で愚痴をこぼすこともあるでしょう。にんげんだもの

しかしそのような愚痴や自身の見識の狭さをわざわざ映画レビューサイトに書き込んだりハッシュタグをつけて世界に呟いたりする行為はただのストレス解消で生産性がない。社会性がない。

 

"理解できなかった"

"描写が足りなかった"

"期待と違った"

"感情移入出来なかった"

などはよく使われるワードですがほとんどの場合足りてないのはその人の脳みそですし、"期待と違った"に至っては実際目にしてきたものの話は一切しておらず只の自分語りである。

一見指摘に見えてその実、己の肥大した自意識を平気で投げつけている人って少なくない。

 

映画についての語り口があるなら存分に語ってほしいし、自意識の話しかする気がないなら映画である必要性がないので他でやればと思う。

 

わたしは"映画"について語りたいし、"映画を通して湧き出てくるあなたの感性"と語りたいのだ。

 

「作品を観ていただく方の気持ちや視線もこの作品の一部になるのでは、と思う」「2人のことを見守ってください。じーっと」」

リズと青い鳥』の当事者は希美とみぞれの2人だけだったが、わたしはこの映画の当事者に少しでも近づきたくてこれを書いているし、そういう人が少しでも増えて欲しいと思っている。

見守る(受け取る)謙虚な姿勢がないと語り合う(相互作用する)ことは出来ない。文句なら一方的にいえるけど互いを尊重出来てないと語り合うことなど出来ない。

そんなところが第一項の要旨でした。

 

そんなこんなで長い前置きになりましたが、

ようやく『リズと青い鳥』について、"私の視点"から語っていきたいと思います。

 (以下本編の内容に触れていきます)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三の視点 高坂麗奈

私は撮影や映像に詳しい訳ではないのでボロが出ないようにしたいところですが、本作は被写界深度が浅い(ピントが近い)寄せの映像が多く使われており、特に鎧塚みぞれに関しては被写界深度が浅い接写が多用されているかと思います。山田尚子がいかにもアニメ的で画一的な画が撮れるパンフォーカスよりも接写や定点カメラを多用した実写的な撮り方を好む映像作家であることは多くの有識者が指摘されているところだと思うので詳しくは他記事など調べて頂ければと思いますが、『リズと青い鳥』に関してはとりわけ、鎧塚みぞれの表情に迫る様な被写界深度の浅い映像やけして広くない教室の椅子や机から覗き見る構図が多用されてます。

高校の吹奏楽部を舞台に、少女2人のみずみずしい青春を切り取ったアニメ映画「リズと青い鳥」の公開に合わせ、山田尚子監督が「校内にある椅子や机の視点で、彼女たちを見つめているような映画です」と語った。

「椅子や机の視点で」 「リズと―」の山田監督 - 共同通信

 ご存知の通り鎧塚みぞれというキャラクターは言葉の表出が極端に少ないため、彼女の繊細な感情表現を見逃さないようにこのような画づくりがなされたのだと思います。

確か『映画 打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』関連のインタビューでアニメーションは眼球の動きひとつでも演技することができる強みがある、みたいなのをみたことがあります。

リズと青い鳥においては鎧塚みぞれの手足の仕草、目線の動き、声のトーンの変化、映像や音楽全てが彼女を表現していました。

 

ところで前項でこの物語の当事者は希美とみぞれ二人だけと言いました。

この物語はみぞれ視点中心に進んでいきますが途中から希美の抱える問題が浮き彫りになっていき徐々に希美の視点に迫っていくというのが大まかな物語構造になっているかと思います。

そして希美視点へと移行していく転換点に第三の女 高坂麗奈の働きがあったことを指摘しましょう。

第三の女 高坂麗奈 素敵な響きですね

 

リズと青い鳥は徹底的に希美とみぞれ(それとリズと青い鳥)にフォーカスされた物語であり、例えば性格の良い吉川優子や中川夏紀ちゃん(好き)は二人を見守る目として単体ではピックアップされず複数人いる中の一人として登場してますしそれは「響け!」の主人公黄前久美子も例外ではありませんでした。

しかし物語の中盤、全体練習で課題曲「リズと青い鳥」のフルートとオーボエの掛け合いが上手くいかない場面において、鎧塚みぞれを明確に見つめる高坂麗奈の視点と表情が意図的に挿入されています。

そして高坂麗奈は性格が悪いので(本人談)はっきり言ってしまうわけです、

 

「先輩、希美先輩と相性悪くないですか」

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((C)武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会)

 

ここで注目したいのは高坂麗奈は性格が悪い女ですが(本人談)希美とみぞれのギクシャクした関係性についておそらくどうでもいい思ってるだろうし認知しているかもわからない。演奏者の想いの強さ云々よりも演奏技術の優劣を望むというのはテレビアニメシリーズでもやったことです。

しかし、本作はオリジナルタイトル『リズと青い鳥』であると同時に「響け!」シリーズでもあるわけで部活、"合奏"モノでもあるわけです。「響け!」という音楽の中でもとりわけ吹奏楽、"合奏"を通じて育まれる関係性の物語。友達の関係性に絞った話なら混じり合うことのなかったであろう鎧塚みぞれに対して、合奏面で最高のパフォーマンスが発揮されそうにないことが高坂麗奈には許せなかった。

そういう音楽に対する誰よりも真剣な視点を持っていたからこそ、吉川優子でも中川夏紀でもなく高坂麗奈が本作の数少ない当事者になることが出来たのだと思います。

 

余談ですがこの映画で一番好きなシーンは麗奈と久美子の合奏でして、「お、お、お、お前ら〜〜〜」とどうしてもニヤニヤがおさまらない名シーンでありますわよね。

 

さらに余談で先程『リズと青い鳥』も「響け!」シリーズとして部活モノの性質も持っていると話しましたがそうなると面白いのが、よろい…剣崎梨々花さんです。

ここは特に原作改変があった箇所らしいので原作未読のわたしが指摘するのはちょっと勇気がいりますが、劇伴がキャラクターや関係性の心情とリンクする本作において、合奏だけに留まらない部活モノとして、みぞれの日常面に彩りを与える存在としてやはり彼女もこの物語の当事者になっていく姿は感動的でした。希美とみぞれの関係性のシーンでは不穏な劇伴が多かった本作においてみぞれとよろ…剣崎さんは一緒のコンクールに出場するという合奏面では交わることが出来ませんでしたが、日常面において素敵なメロディを奏でることが出来たという学校生活の多面性を表した描写になっていたかと思います。

 

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 本作の最大のモチーフである『青い鳥』はすでに手の内に存在していたしあわせの形に気付くための物語。つまりは自身の内面に向き合うことを問われる物語であるように思いますが、各キャラクターの内面の写し鏡ともいえる青い鳥がそれぞれどこを向いているのかは面白い対比になりますね。

 

 

 

鳥カゴを怖がってた小鳥は 何も変えられやしないと泣いてばかりいた

 

この物語の冒頭は鎧塚みぞれの視点、鎧塚みぞれの世界からはじまります。好きな人と一緒に歩んでいるだけでも世界が彩られ音楽に満ちている。

しかしそれはあくまで一方的なみぞれ個人の視点からでした。

音楽室での合奏は二人の関係性を示していましたが途端に音楽が噛み合わずそのままの関係性が終盤まで続きます。

 

階段を上がり学校に入った二人。そこから本作は学校空間という鳥かごの中を執拗に描写し続けました。

響け!ユーフォニアム2を見ていて見返して気付いたのですが、ユーフォ本編は模範的な青春といいますかぶつかり合う青春。特にユーフォ2においては窓はずっと開け放たれていて、窓枠を十字架に見立てたモチーフが多用され心のうちを告白し懺悔し合う、ぶつかり合う青春が繰り広げられていたわけです。

それに比べてリズ青は冒頭で希美とみぞれが学校に入ってからラスト学校から出てくるまで一貫して学校空間の中の話。つまり鳥かごの中を執拗に描写していました。

学校ってこれ程までに格子やロッカーや棚など閉じ込めるためのモチーフに溢れた場所だと見せつけられたのは軽いホラー体験でした。

窓が開かれるのも意識的な場面のみで、閉じきった窓と無数の格子。廊下に視線が落ちる場面ですら格子の影が執拗に映し出されていました。

そこで繰り広げられるコミュニケーションはユーフォ本編のようなぶつかり合うものとは対照的にすれ違い噛み合うことのないディスコミュニケーション

唯一学校の敷地から逃れられた場面は希美が鳥かごの中のみぞれを逃がすことから逃れられないことを自覚する哀しい場面でした。

 

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((C)武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会)

 

 最後まで噛み合わないこと。希美とみぞれがお互いに異質なものであると自覚することこそ、この物語の終着点でありました。

 

みぞれは希美自身の全てが好きであること(それ故フルートへの固執はない)

希美はみぞれのオーボエこそ好きであること

 

どうしようもなく悲しい現実を受け入れることで音楽と受験。互いの現実に向き合うことが出来た二人が終盤それぞれリズと青い鳥と参考書、音楽室と図書館という別々の道を明確に歩き出した場面にて、二人の劇伴がようやくかみ合い美しいメロディを奏ではじめるのです。

 

 「ユーフォ」が一歩ずつ階段をどんどん上っていく作品なら、「リズと青い鳥」は個人の底にあるものに一歩ずつ下りていく作品、ということですね。

「リズと青い鳥」山田尚子監督「彼女たちの言葉だけが正解だと思われたくなかった」|Zing!

 

冒頭音楽室へと向かう階段を上っていく希美とみぞれ。希美が常に先導し上の位置を保ったまま階段を上っていきました。

大好きなハグの後それぞれの道を選んだ二人は待ち合わせして同じ帰り道を歩みます。

冒頭とは対称的に先に階段を下りていく希美はすべての階段を降り切る直前、コンクールでわたしがみぞれのオーボエを支えるからと表明し希美はみぞれに対して下の位置にいることを認めました。

そうやって最後の荷物を降ろした希美は階段を下りきり最後の場面でみぞれと向かい合うことが出来た。

下ろすことで新しい場所に進むことが出来る青春もあったわけです。

 

 

最後に 〜好きを語り合うのが青春だ〜

好きの言い合いっこは青春なんですよ!

自分の好きな青春映画のクライマックス付近には大抵好きの言い合いっこシーンが挿入されます。

もちろん『リズと青い鳥』の本質は青春のほろ苦さではあるけれどそういう苦い感情も含めクリエイターたちがこぞって青春をテーマにするのも、我々傍観者が青春作品に惹かれてしまうのもやっぱり人間や感情が好きだからだと思います。

だからこうやって好きな作品についていつまでも語っていたいしもっと伝えていきたい。

 

映画とは、そこにただある映像に過ぎません。

そこから何を持って帰るかは、われわれに任されています。逆に言えば、映画を観て得られるものは、その本人の感性や知性のレベルに見合ったものでしかない、ということです。ぼくはしょっちゅう、とっても鋭い人や頭のいい人のレビューを観て、なるほど!と思いますが、そういう人のレビューは大体肯定的だったりすることが多いです(そうじゃない場合もありますが)。

自腹は神様ではない - 伊藤計劃:第弐位相

 

"映画を観て得られるものはその本人の感性や知性のレベルに見合ったものでしかない" ので

例えば劇中で希美が餌をあげていたミドリフグは熱帯魚の中でも他種を追いかけ回すため混泳には向かない種であることや、山田尚子渾身の「ダブルルーリード」ギャグであったり、

「お互いに同じ素因数を持ち合わせない二人だ」ということで「互いに素」という数学用語を持ち出して、そこをひもといてみたりどう描いてみようか話したり……とか。

――映画のAパート前に出てくる「disjoint」ということばですね。

はい。「互いに素」には別の英語が相応しいみたいなんですけど。「joint」が入っているのでこのことばを選びました。希美とみぞれは交わらないところもあるけれど、向き合うように描きたいなと私は最初思ってたんです。でも牛尾さんとのお話で「互いに素」ということばが出てきたときに「確かにそうやって発散し続ける二人なんだから、ちゃんとそれを描こう」と考え直しました。

「リズと青い鳥」山田尚子監督「彼女たちの言葉だけが正解だと思われたくなかった」|Zing!

数学のことなんかは見識のある人にしか拾いきれないわけです。

 

それでも久美子と麗奈の「お、お、お、お前ら〜〜〜」ってなるシーンの良さについて延々と語りたいし自分語りではなく映画を通した私の視点からこの映画の"好き"を語りたいと思ってここまで書いてきたわけです。

影響を受けたものに対して自意識の話しか出来ないのってもったいないしそれぞれの視点から"好き"の話が聞きたいよ。

 

 

「映画語りは、ハッピーエンドがいいよ」

 

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((C)武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会)