パンがないなら作ってやるわ

”夢なんかよりも ねぇ 何よりも時間がほしいよ”

偶像崇拝のカウンターとしての騎咲レイの誓い!

アイカツスターズ!第80話「騎咲レイの誓い!」がなんまら良かったので書く。

 

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「騎咲レイの誓い!」では ”アイドル騎咲レイ”の目的はファンや自分のためにあらずエルザのためにあるという女児向けアニメではおよそ語られない様なテーマをぶち込んできたわけだけど、七倉(私の夢はゆめちゃんと共にある)小春ちゃんの在り方といいアイカツスターズ!というアニメはアニメ的なお約束から逸脱した本当にキャラクターの感情に誠実なアニメだと思います。

 

ファンとアイドルの在り方についてデリケートなテーマを扱った本話でしたが騎咲レイなりにファンへの筋を通したステージだったことは言及しておきたいです。

これはシューティングスターとして数年ぶりの復活ステージではなく”アイドル騎咲レイ”としてのステージだった。

もちろん噂を聞きつけたシューティングスターのファンも海を越えやって来ていた訳だがそれはファンの都合でしかない。新人アイドルとして彼女はステージ冒頭で”アイドル 騎咲レイ” としての所信表明を行っておりそれを受けて見限るか応援するかはファンの勝手である。 これまでファンに支えられ活動してきたアイドルが急にたった一人の為に歌いますとか言いだしたら暴動必死だが、きちんと筋を通した騎咲レイには好意的に受け止められアイカツランキング(死語)5位にまで登り詰めた。

”アイドル 騎咲レイ”はアイドルである前にエルザ フォルテに惚れ込んだ ”私人” であるという表明のための第80話であった。

 

 

”私人”としてのアイドルキャラクター

面白かったのが ”エルザのために” という表明により嵐の様に騒めく観客に向かってレイが 「キミたちは嵐に立ち向かったことがあるかい?」と問う場面だ。

これは実際に困難に対峙する当事者(アイドル)と傍観者(ファン)との絶対的な隔たりを含ませた問いと受け取れる。

アイドルがファンのためのステージと言及することは勿論素晴らしい心構えでありレイは四ツ星2年生組がそうであるというスタンスの違いを確認しに四ツ星に訪れていたが、ステージがまずそのアイドルのために存在をすることは当たり前の事実である。

全ては当事者次第…

アイドルも私人なのである。

 

 

アイドルアニメ偶像崇拝へのカウンター

全てのジャンルに通ずる所だけど何か偉そうなファンやオタクっているじゃないですか?

金を払ってやってる、存在を周知してやってるみたいな

でもね、「ファンのために尽くせ」みたいな言及はファン側からは絶対に言っちゃいけない言葉。そのアニメやアイドルの筋の通し方、在り方に納得がいかなかったらさっさと離れるべき。

アニメとアイドルって理想の押しつけというか偶像崇拝の気が強いと感じるジャンルであり特にアイドルアニメなんて最たるものじゃないですか。某アニメでは観客を意識させる様なミュージカル仕立てで画面内で常に媚びを売り続ける何てことをやっている次第ですし…

(↑それはそれで楽しめば良いんだけど崇拝になってしまうと辛い)

 

そんな偶像崇拝の象徴たるアイドルアニメのキャラクターも複雑な感情を持つ私人であり日々悩みながら頑張っている。自分を輝かせるために進み続けろと語りかけてくれているのがアイカツ!でありそれぞれの在り方について更にブラッシュアップをかけたのがアイカツスターズ!の大きな特色になっていると思う。

レイからの問いかけにドキッとしてしまった我々はやっぱり自分の仕事(役割)を頑張るしかないんだよ。

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』テーマ解説と分かろうとしなさが共有されることへの警鐘

はじめに

本稿の目的は酷評者の9割以上が理解していない『打ち上げ花火〜』の簡単なテーマ解説と分からなさを作品の所為にしてしまう行為とそれがたやすく共有される現状がいかに危機される状況であるか明らかにすることである。

物語の核心にも触れるので『打ち上げ花火〜』をすでに見た人向けの話になるが、全ての作品に対峙する上で心がけて欲しい事柄についての文でもあるので多くの人に読まれて欲しいと思う。

 

そもそも映画批評で心がけるべきポイントやテーマを見にいくものではないという話は伊藤計劃氏が簡潔にまとめているのでそちらを読んで頂きたい。

ぼくとあなたはちがうということ - 伊藤計劃:第弐位相

誰も信じるな - 伊藤計劃:第弐位相

 本稿は上記の焼き増しでしかないがその上でテーマを理解出来なかった(しようともしなかった)人がいかに本作に泥を塗っているかを『打ち上げ花火~』のテーマを踏まえて論じようと思う。 

 

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』のテーマとは? 

思春期のはじまりを扱った作品

本作は「子供から大人へ、複雑化する自身の感情や世界の大きさとはじめて対峙する物語」である。

…分かりづらいので本作に沿って言い換えると、

「好きな子の隣で打ち上げ花火を見たいと願うはじめての強い感情と世界の大きさに向き合う少年少女ひと夏(一夜)の成長」…あたりになると思う。

原作小説のタイトルは『少年たちは花火を横から見たかった』である。

 (ちなみに僕好みの言葉で表すと「初期衝動と行動原理」

 

ちっちゃな子どもにとって、別れは死別に近いほどつらく苦しいものだった。拾った子猫が死んだ時は涙が止まらなかった。なずなもぼくももっと幼い子どもだったら、転校なんて嫌だ嫌だと駄々をこね、おいおい泣いたことだろう。そんな感受性が次第に失われて大人というものになるのだとしたら、あの夏は、ちょうどそのはじまりの季節だったのかもしれない。

*1*2

本作が思春期以前の話なら泣いて悲しむだけで終わった。

しかし彼らは着実に大人に近づいておりまだ不定格な自分の感情に折り合いをつけながら大人や世界に対抗しようとする。

思春期のはじまりの不定格さは安曇祐介によく現れていた。

個人差があるにせよこれくらいの年代の人格というのは関係性の中で役割的に発生するものであり強い人格、強い意志を持つ子供はほとんどいないだろう。

なずなと花火大会の約束をした祐介はなずなへの感情や友達との関係性をうまく処理出来ず約束をすっぽかすだけでなくあんなブス好きなわけないと誤魔化すので精一杯。しかし違う世界線の祐介はなずなとぬけがけした典道を見て本気でキレている。

そういった不定格さこそ中学一年生であるといえるのに、そういう感情を忘れてしまった人が祐介がチグハグ過ぎてムカつくと解釈を誤っている。

本作では不定格さを抱えながらもなずなと逃げる道を選び取った典道こそヒーローになりえた。

 

身長差が気になって仕方なかったという意見も見たが本作が思春期のはじまりを扱っていることはキービジュアルにも現れている。

 

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身長差を強調した特徴的なキービジュアル

典道は海側 なずなは線路側 既に別れが示唆されている

(C)2017「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」製作委員会

成長期は一般的に女子の方が先に来る。

小学校高学年〜中学一年生くらいの時期は精神的にも体格的にも女子の方が成熟していて男子からするととても大人びて見える。そういうイメージを具現化させたのが及川なずなというキャラクターであり低身長で童顔の典道との対比が際立つ。

なずなの場合複雑な家庭事情により周囲より早く大人に向かわざるを得えなかったわけでそのミステリアスさに加え口紅を纏った姿はもはや神々しくさえあり、中学一年生の憧れの対象としてこの上ない魅力を放つ。

しかしそれほど大きな憧れに見えた及川なずなも母親の前では助けを求めるだけの無力な子供に過ぎない。

典道ははじめて世界の大きさを知る。

 

抗えなさと空想のちから

これから説明する「抗えなさ」という要素は「思春期の逃避行」に自動的に付随するものであるが酷評意見の多くが理解されてないので別けて説明する。

物語の展開によりなずなと典道の逃避行が始めるがお金、知識、法律、身体能力…

中学生は大人や社会システムから絶対に逃れられないし勝てない。

離婚や転校もそう…

なずなはどうすることも出来ないのを理解した上で、それでも抗いたいという強い意志を叶えるべく誰かに全てを賭けるしかなかった。

ナズナの名前の由来の一つが、夏になると枯れること、つまり夏無)

ナズナ花言葉「あなたに私のすべてを捧げます」

 

この「抗えなさ」という物語上の仕掛けを理解していない人ほど次第に話についていけなくなったと思われる。

正直どこからどこまでが空想かなんて舞台装置の問題はこの物語を読み解く上でさして必要ない。(というかタイムリープは全て空想だ!)

TVドラマ版『打ち上げ花火~』が放映された「if もしもシリーズ」も、もしもの世界を映し出すことが目的でもしも部分の仕掛けに関しては問題にしてなかったと思われる。

 

反時計回りの風力発電機…決してカップインしないゴルフボール…

「抗えなさ」が確定しているシチュエーションの中タイムリープを重ねるごとに空想の度合いが増していく。

 TVドラマ版の監督であり原作小説の著者である岩井俊二はこの物語のモチーフが『銀河鉄道の夜』であると述べています。

銀河鉄道の夜こそ空想の世界で生きる目的を見出そうとする物語ですよね。

 「抗えなさ」が確定している世界だからこそそれでも抗おうとする少年少女唯一の対抗手段だった空想世界の煌めきが美しく、どうしようもなく悲しい。

夢の電車に乗り込んだ二人は夢を語り、愛を歌う。

ここにエモを見出さずに何を感じ取るというのか?

 

TVドラマ版では結局電車には乗り込まずただ二人遊んで新学期の話をして帰って終わりなんですが、本作ではより空想度合いが突き抜けて銀河鉄道の夜あるいはシンデレラ的な表現になったわけです。それこそアニメでリメイクされた意義だったように思う。

 

 

www.youtube.com

曖昧な心を とかして繋いだ
この夜が続いて欲しかった

*3

 

繰り返すがこの物語ははじめから成し遂げることは目的にしていない。

ただこの夜(空想)が続いて欲しかっただけ。

それでも前に進むこと、生きることを誓い合った。

少年少女は時計の針を戻さなくてはならない。

空想の出来事だったがその時抱いた感情はこれからの人生の原動力になるだろう…

(ちょっとポエム調)

 

そうして空想の世界から一歩踏み出し現実に戻った世界で二人の姿は提示されず、彼らがこれから何を選び取るかは観客に委ねられる。

同級生たちよりほんの少し大人に近づいたなずなと典道の一夏の物語。

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』はそういう作品であった。

 

(最後の方は解説ではなく解釈になりました。各々で解釈してみてくださいね)

 

 (9.6、2回目の鑑賞を終えて追記)

典道(道を示すよりどころの意)はそこに残りながらもよりどころであり続ける灯台のメタファーであり「瑠璃色の地球」の”あなたがそこにいたから生きて来られた” はなずな(夏になればいなくなる花)からの最大の賛辞と別れの言葉。

夜の夢の世界を抜け出したラストの教室シーンに二人の姿はないが直後に映し出されるのは太陽の下輝く灯台と薺(なずな)である。

 

閑話休題テーマを語るな

ここまで『打ち上げ花火~』のテーマを語ってきたわけですが頼まれてもないのにこの映画のテーマはこれこれでここにエモを見出して~など説明するのは本来褒められた行為ではなく映画や多くの作品はそれぞれの解釈に委ねられるべきものであります。しかし『打ち上げ花火~』に関してはあまりにも何も持ち帰ることが出来なかった人が多くそのまま最低の映像体験として嘲笑の対象にされるくらいなら説明をつらつらと重ねて少しでも何か感じ取ってもらえることのほうが何万倍も意義があるということで書いているわけ。

 

 分かろうとしなさが共有されることへの警鐘

 そろそろ本稿の着地点に向かいましょう。

今この作品に対する酷評がネット上で晒され共有されている。

なぜそういう事態になったかというと酷評者のほとんどが作品テーマを理解出来なかった(しようとしなかった)からである。

テーマを理解出来なかったということは内面・背景を理解出来なかったということで外面・見たままを語るしかない。外面で語るということは作画が~、キャスト演技が~、説明が足りない~、感情移入が~、とかいう印象論になる。

これらは本当に(感想者の内面の)印象論でしかないのでつまらなかったことは分かるものの解釈を経ていないため社会通念上の言葉にアウトプットされておらず何がつまらなかったのかまったく分からないのだが要するに彼らは文句を言って分からなさを何かの所為にしてしまいたいだけなのだ。

これは映画感想の話に限らず、人に(作品に)に文句をいいたい時は対象にも通じる言葉を選んで説明するべきである。(理由もはっきり分からずに因縁をつけるな)

 

あなたの人生の中で愚痴を零すなというと厳しすぎるのでせめて自分のコミュニティー内に留めて欲しいと思う。少なくともわざわざ映画レビューサイト等に書き込み社会に対して投げかける様な内容ではない。

過激な言葉遣いになってしまったが作品テーマを理解出来なかったことを非難しているわけではない。伊藤計劃氏が仰られた通り ”映画を観て得られるものは、その人の感性や知的レベルに合ったものでしかない” のでそれを責めるのは酷だ。

 ご存知の通り私たちが他人の本当の内情を知ることは絶対に出来ないのでせめてもの相互理解に努めるため相手にも伝わるように言葉を選びコミニュケーションを図ろうとする。

しかし、自分の中の分からなさを解釈せずそのまま社会に投げかける行為は思考停止であり相互理解からはもっとも遠い行為である。

自分の中の分からなさの責任を漠然と社会や他人に押し付けるな。それはもはや分からなさではなく分かろうとしなさである。

 

さらに『打ち上げ花火~』のケースではその分かろうとしなさが並べられたスクショを無責任な第三者まで巻き込み拡散共有され作品が嘲笑される事態に陥っていたので地獄絵図かと思い笑ってしまった(笑えない)。

 分かろうとしなさが漠然と投げかけられあまつさえ共有される社会など絶対に信じたくないし警鐘を鳴らしたかったというのが本稿を書こうと思った動機である。

願わくば一つの作品を通してそれぞれが自分の解釈を語り、何が好きか?何が納得できないか?皆違うが色々な感情を抱えて生きているんだという相互理解の助けになるような社会になって欲しいと思う。

 

感情をアウトプットする営み

少年たちは花火を横から見たかった』のあとがきで岩井俊二は自身の創作衝動(初期衝動)は中学生くらいの時代の言葉にならない感情や懐かしさを再現すること、そのために小説を書いたり映画を作ったり音楽を作ったりしていると語っていました。

強いクリエイターたちはそういった創作衝動を抱えながら自身の感情や感性がアウトプットされた創作を続けている。

僕はというと正直一年くらい前までは個人がTwitterやらブログをやる意義がよく分からなかった。自身のさして強くない内面を社会に投げつけることに何の意味があるのか分からなかった。

しかし色々な強い作品や解釈に触れるようになり少しずつ自分の言葉をアウトプットすることを重ねていたら自ずと話したい言葉が増えていった。

同じ作品を見てもその時期によって解釈は変わっていくしその感情の変化をアウトプット出来るようになったことで自身の成長に繋がっていると思えるようになってきた。強い作品や解釈を通して自身の行動原理を探り続けているわけ。(そしてアイカツ!を解釈し続ける)

本稿を書き始めたのは無責任な批判への憤りが動機でしたが、これを書くにあたり改めて本作の解釈を重ねるにつれ本当に好きな作品だなぁと思ったし自身の中の作品理解度をさらに高めることが出来たと感じています。

 

 

そんなこんなで最後になりますが本作について言いたいことは

ありえんくらいテーマもモチーフも好き、大好き。

自分の感情をどんどんアウトプットする努力をしていこう!

現場からは以上です。

 

 

 

 

*1:少年たちは花火を横から見たかった角川つばさ文庫

*2:岩井 俊二、 永地 著

*3: 打上花火/DAOKO×米津玄師(作詞・作曲 米津玄師/Produced by 米津玄師)

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』 〜作品が自分の一部になるということ

予告編になんとなく惹かれ見たケネス・ロナーガン監督作品『マンチェスター・バイ・ザ・シー』があまりにも素晴らしく、触れてから数週間経ったにも関わらず余韻が強いのでここでひとつ自分のためにまとめてみる。

核心に迫るネタバレはなしで個人的な見解を述べていく。

 

(すごく簡単なあらすじ)

ボストン郊外に住む主人公(リー)は兄の死をきっかけに故郷のマンチェスターバイザシ―(アメリカ東海岸の町)に戻り兄の息子(パトリック)や周囲との関係性の中に自分自身そして過去にこの町で起きた因縁と向き合っていく……

 

あらすじの通り地味で静かな話だ。

映画的な語り口は一切なくカメラは主人公リーをとりまく状況をただ傍観する様に静かに映していくいくだけ。

自分は演出に関してあまり明るくないがそれでも文脈と映像で語るという作業が徹底されている、とても繊細な作品だと感じた。

リーの行く先々ごとに思いを馳せるように自然に挿入される回想の数々、リーの焦燥感が高まり視野が狭くなっている場面では主観視点に切り替わったり、食事場面でわかる心の距離、同じ意味合いの台詞でも人やシチュエーションでまったく違った意味が生じるユーモア等々きめ細かい。

特に印象的なのが上手下手(左右)の使い方でリーが故郷で経験した因縁が起きた日の回想で事件が起こるまでは横から平面的なアングルで撮り続けているが、いよいよ決定的な場面に遭遇したとき映像は忽ち立体的となりリーは奥に進んでいく。そしてその現実のあまりの痛みにただ茫然と立ち尽くしその深淵に取り残されてしまうのだ…

パトリックとの交流や周囲との関係、全てが繊細な感情に包まれていて派手な物語性は殆どなくとても重たい話だが、この作品でしか伝えられない美しさがあった。

特に最後の2シーンのリーとパトリックの画にこの映画の意味が詰まっているといっても過言ではないと思う。画が語るとはああいうこと。

 

パンフレットの監督のインタビューを読むに、キャラクターに寄り添った脚本作りを強く意識されているのがわかる。

「気に入ったアイデアがあったらキャラクターの置かれた状況を考える。そして、そのキャラクターの状況からその周囲に向かって、物語世界を構築していく。」

*1

 

監督が取り扱っているのは物語というよりキャラクターそのものだ。

キャラクターの"在り方"や"生きざま"がそのまま物語となる。

僕は映画を見るようになってまだ浅いので最近の作品しか挙げられないが、『聲の形』や『ムーンライト』、グザヴィエ・ドラン作品のようにキャラクター自身とその繊細な感情や文脈を取り扱った作品にこそ強い感銘を受けている。

本作を見るまで今年のナンバーワンに推していた『SING/シング』で一番好きな場面は所謂  "洗車"のシーンで、あれは言葉やドラマチックな展開ではなく主人公のひたむきな生きざまそのものが友人のニートを突き動かすだけの力になった。

監督を絶大に信頼できると思う大きな点がもう一つ、彼の映画に対するスタンスだ。

「映画作りで僕が好きなのは、僕自身のプライベートな想像力のもと生まれた物語が、他人の感情の所有物となるというプロセスだ。(中略)僕の愛する映画が、僕の一部になったように。」

*2

いや、もうほんと信頼というか創作に対するスタンスとして完璧過ぎて…

少なくとも本作や上に挙げた作品たちをこれからも愛していきたいと思ってるし、今このようにブログに思いを書き綴っていることこそ作品を自分の一部にしていくための一つの作業になっているんだと思う。

 

ミニシアター中心の映画だけど是非各々がこの作品を見届けそれぞれの大切な一部になったらいいなと思う。 

 

 

*1:ケネス・ロナーガン・劇場パンフレット

*2:ケネス・ロナーガン・劇場パンフレット

アイカツスターズ!への感謝と個性について

 

 

”去年の今頃と まるで 違う景色なの” 『スタージェット!』より

TVアニメ版アイカツスターズ!一年目の放送が終了しましたがアイカツスターズ!には本当感謝しかないのでつらつら書き綴っている。

『スタートライン!』のOPを初めて見たときSHINING LINE*から繋がる映像、歌詞、せな・りえの声、全てが完璧でその時点で信頼しかなかったのですが、去年の今頃は無印!より大切な作品に成り得るとは思ってなかったよ。

TVアニメ版アイカツ!シリーズのテーマというと、
「あこがれは力」「踏み出す勇気」「セルフプロデュース」「高め合う仲間」「つながるバトン」「ゴールはスタート」みたいな感じでしょうか。

『SHINING LINE*』
『START DASH SENSATION』
『スタートライン!』
スタージェット!』

など作中特にメッセージ性の強い楽曲群は同じようなテーマを繰り返し伝えている。

星のツバサ編新OP『STARDOM!』でも。

そういうアイドル活動や人生における大切なテーマをアイドル達の”個性”と”未来向きの今”を紡いだものがアイカツ!シリーズなんだと考えていますが、無印!ではファッションブランドというその人の趣向や文化を反映するモチーフがありそれを軸に物語を紡いでいました。
一方スターズ!はブランドに関してはあまり大きく扱わずキャラクターの個性そのもの(ルーツやバックボーン)で勝負してきた。これが無印!とスターズ!の大きな違いだといえる。

例えば藤堂ユリカがゴスロリ好きの吸血鬼キャラというのは個性の中でも表面的な部分、属性的特徴だといえる。ユリカがロリゴシックのドレスや吸血鬼の漫画から貰った勇気を自分の中に落とし込み一歩踏み出した背景そのものが、その人の本当の個性だといえるのではないか。

スターズ!のキャラクターは己のバックボーンと強く対峙している。

それぞれがアイドルを志した背景


虹野ゆめは憧れのひめ先輩に近づくに至り先輩の抱える呪いとも対峙しなければならなかった。
桜庭ローラは道に迷ったとき自身の音楽のルーツである実家での特訓をやりきった後新しい師の元で飛躍した。
香澄真昼はずっと姉と対峙し続けたことでその想いを理解し自身の成長で返した。
早乙女あこは自身も熱心なアイドルファンであるが、自分の熱心なファンの言葉に向き合うことで強くなった。
そして自分の行動原理がはっきりしている白銀リリィだけがそのモチーフを形にするべく新ブランドを立ち上げようとする。実に筋が通っている。

先日MF2017の時に話した方と、
”桜庭ローラは個性について考え始めた時点で優勝なんだよなぁ”
みたいな話をしましたがまさにその通りで、自分の行動原理について考えることこそが個性になるしそういうのを踏まえている作品はすべからく素晴らしい。アイカツスターズ!は素晴らしいのです。

メインキャラクター以外も特徴的でした。

自分にとって最高の成長の場でないと感じたら組み替えや転入も厭わない展開(ツバサや小春)。
明らかな身体的ハンデを抱える白銀リリィやゆめにオーラを消されたローラなど才能の優劣を明確に示す姿勢。
自分が最高の地位にいれずとも人の為尽くす幹部生の在り様(特に後輩を暖かく慕う桂ミキ)。
教育者である前にひとりの大人として子供を身体の危険から回避しようとする不器用すぎる諸星ヒカル。
モブキャラも一人一人外見の特徴だけでなく少ない台詞の中からもその人となりが想像できるようなキャラクター作りがされていて、本当にキャラクターや世界に対して誠実な作品なんだなぁと感謝の気持ちでいっぱいです。

 

”来年の今頃 どんな 景色見つめてる?” 『スタージェット!』より


星のツバサ編も期待しかないでしょう!

春ちゃんがイタリアに行った時点でいずれは世界編かなぁとは思ってましたが、まさか海賊船が来襲するとは⁉︎

パーフェクトアイドルかつ海賊王であらせられる エルザ フォルテ(様)
イタリア系の名前らしい

ニュージーランド産ヒツジ系ふわもこアイドル 花園きらら
腹黒説が濃厚

秘書じゃなくて騎士でしょ!
アイカツ!初?の男性的モチーフのイケメンアイドル 騎咲レイ
女児アニも時代はヅカ系

まだまだ面白いモチーフは沢山あって世界は広いな〜と楽しみしかないし何より新OP曲の『STARDOM!』が良すぎてOPだけで優勝できそうなんですよね…

 

”憧れは次の 憧れを生む わたしはここだよ
震えるような 高みへと 夢は 夢を 超えていく
きれいな物だけ 見るんじゃなくて 全部抱きしめて
光はもっと遠い空 願いは負けたりしない
本気の君を待ってる” 『STARDOM!』より

 

ごきげんよう、ジャパン」 面白いじゃない!!

アイカツ!が示したもの、アイカツスターズ!が示そうとしているもの

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アイカツスターズ!29話が素晴らしかったので綴ってみる。

 

アイカツ!シリーズには2つのテーマがあると思う。

ひとつは「憧れが原動力になる」ということ。

憧れ(目標)が存在することで近づきたいと頑張ることが出来るし、目標を通して自分がどうなりたいか考え努力することがそのままアイドル活動だといえる。

もうひとつのテーマは「継続の大切さ」。

目標に近づくためには努力し続けなければならないし、目標を達成してもそこはまた新しいスタートラインだということをこの作品は繰り返し伝え続けている。

アイドルを通じてそのようなテーマを盛り込んだ”未来向きの今”を伝える物語がアイカツ!であり、スターズ!も間違えなくその流れを汲んだ物語になっているが、アイカツ!とスターズ!では見せ方に大きな違いがある。

 アイカツ!はアイドルと”文化”を軸に物語を展開していた。

アイカツ!の最大要素であったブランドとはライフスタイル(文化)の象徴であり、キュートやクールの様な属性分けからクールの中でもロックやゴシックやダンス系などに細分化されそれが各アイドルの特徴になる。2期以降はボヘミアンチロリアン、フラメンコ、和風など国際的なモチーフが増え、4期では日本全国の文化に触れる旅をした。

それぞれの文化の象徴であるアイドル達が登場し、高みを目指し合うのがアイカツ!の構造になっていた。

紫吹やひなきの様にブランドのミューズになる為に、プレミアムドレスをもらう為に頑張る話が沢山あり、そのような開かれたチャンスでのアイドルの成長が物語の要であった。なのでプレミアムドレスを手に入れてからの大会は勝つことが全てではなく、それぞれが高みを目指すための場であり、敗者も勝者も讃えられる美しい構造になっていた。

 

”文化”を通してアイドルや世界の在り方を示したアイカツ!とは異なりスターズ!が目指していると感じるのはより”個性”に迫ること。”文化”(ブランド)はその人の好きなモチーフが散りばめられた個性の象徴だといったが、さらに根源的な”個性”を見つけようというのがスターズ!の命題だと思う。だから白鳥ひめはオリジナルブランドを作ったし白銀リリィもオリジナルブランドに拘っている。立花アンナ先生はローラに大事なのは”個性”だと伝える。

スターズ!の世界の一番の特徴はS4システムにある。ひたすら高みを目指し讃え合うアイカツ!と違いスターズ!では最高の舞台(S4)の枠がはじめから定められており、舞台に上がれる者とそうでない者がはっきり分かれる構造になっている。アイカツ!では方向性が間違っていない努力は報われるべきだと伝えていたが、スターズ!の21話や29話では正しい方向性で努力を重ねたローラがゆめの才能に完敗する様を見せつけられるハードな回だった。そういう才能の差や白銀リリィに示される体力面の差、世界は平等ではないということをスターズ!は意識させる構造になっている。

スターズ!29話で象徴的なシーンがある。

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アンナ先生が花畑の前でローラを激励すこのシーンはスターズ!が描こうとしている”個性”や可能性の広がりを予感させる素晴らしいカットだと感じた。これを見たときにスターズ!は本気で「世界に一つだけの花」の物語を展開する気なのだと気付き泣いてしまった。

スターズ!は全てが平等ではないそんな当たり前の世界の中で、自分の”個性”と向き合い本当の”夢”を見つける。そんな物語になると思う。スターズ!のメインキャラである一年生組が本当の夢、本当の個性と向き合い始めるのはこれからだ。

 

 

『レッドタートル ある島の物語』三様の生を示し、未来へと繋げる物語

 

『レッドタートル ある島の物語』を観賞しました。

予備知識なしで観たので、先入観のない自分なりの考察をまとめてみたいと思います。

ネタバレを含むので避けたい方はお戻り下さい。

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ある孤島にひとりの男が漂流した。

男はとりあえず資源を食いつぶしながら生を繋ぐが、とにかく逃げ出したいという思いからイカダを作り脱出を図る。

しかし、何度脱出を図るも何らか自然の力によって阻害され、それがレッドタートルの仕業だと知る。

男はある日レッドタートルが孤島の浜を這っているのを発見するとこれまでの恨みの元殺してしまう。

ここが転機となる。

 

イカダでの脱出が阻害されていたのは、男にとってのそれは現実逃避でしかなく明確な生きる意思の元行われたものでなかったから自然が許さなかった。

それに気付かない男はレッドタートル殺しの罪を背負うがその命の重さに気づいた時発狂し、レッドタートルは人間の女へと変化する。

女の姿へと変化したレッドタートルは男が自然を敬うにつれ距離を縮め、自然を受け容れここに生きるのを決めた時はじめて手を取り合う。

やがて産まれた息子は人間と自然(亀)の子供。なのでお互いの性質を持ち合わせている。

自然を敬いながらも人間の知識を使い豊かに暮らしていく家族。

 

しかし自然は受け容れるかに関わらず破壊と再生を繰り返すもの。島を襲った津波によって築き上げたものは簡単に壊されてしまう。 

壊されたものは大きいが生きていれば少しづつ再生をさせる事も出来る。家族は少しづつ元の生活を取り戻していく。

 そんな折息子は昔漂流してきた空き瓶(文明の象徴)への想いが募っていき孤島から出ていくことを決意する。

この息子の意思を自然は受け容れ外界へ旅立っていく。

 

年老いた男は孤島で人間としての生を終える。

それを見届けた女は自然へと還っていく……

 

 

 

人間(男)、人間と自然のハイブリット、まだ何者でもない(息子)、自然・亀(女)

三様の生を示した上で外界へ旅立った息子が何者になり何をもたらすのか、未来への希望に満ちた物語だと私は受け止めました。

 

何故この作品が日本で、ジブリで作られたかといえばやはり3.11があったからでしょう。

この様に前向きな生を示してくれる映画が大好きですし『レッドタートル』は素晴らしい作品だと思います。

 

しかし無粋なことをいえば、このようにストイックな作品はエンタメ的な面白さに欠けますし興行収入も振るわないでしょう。

私も人に薦められる作品かといわれれば首を捻ってしまいますし、それが少し残念ですね。

映画『聲の形』感想。人の顔を見て欲しい、対話はそれからだ

 

 映画『聲の形』素晴らしい作品でした。

自分の人生における大切な映画の一本になると思います。

 この作品については映画の反響もあり、色々と素晴らしい解説や考察が出回っているので私から伝えられることはあまりないのですが一点だけ、どうしても書き留めておきたい事があるので文章に起こします。

ちなみに原作未読なので映画版の感想ということになります。ネタバレが含まれるので、回避される方はお戻りください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私のようにこの作品に深い感銘を覚える人がいる一方批判的な人も一定数おられ、そこはまあ感性それぞれなので取り立てることではないですが、批判的な意見の中でどうしても憤りが治らないものがあります。

 曰く、

「イジメの被害者が加害者を好きになることなど ”ありえない”。加害者にとって都合の良い美少女を使った感動ポルノだ!」論です。

 私はこの ”ありえない” という言葉の使い方に憤りを覚えます。

 加害者を赦すことなど ”ありえない”、

まして好きになることなどもっと ”ありえない”

そうでしょうか?

 

そもそも西宮は石田を恨んでいたわけではありません。幼い頃から自分の障害、周囲との差異と向き合わなければならなかった西宮は自分が普通学級における異分子だと半分理解しながらも、友達を作ろうと不器用に、執拗に迫る。友達が出来ないのは自分が上手く振る舞えないから。だから加害者を責め立てることをしないが、その不器用さ故石田とのケンカくらいしか本物のコミュニケーションをとることが出来ず転校してしまう。家族に「死にたい」と明かした悲痛な叫びは上手く生きられない自分への失望に他ならない。

西宮の転校後、イジメに遭う事で自分のしてきた事の取り返しのつかなさに気付いた石田も、もうどうすることも出来ない失望感の中に未来を見出せず自殺を計画する。

そんな人間性を持った二人が再び出会った後どのような未来を見出すか、そういうお話です。

 

間違っても「恋愛」や「イジメ」や「障害」が主題ではなく「人間」の在り方そのものが問題になっているはずです。

そこを「イジメ」や「障害者」という記号的表現にしか関心を示さず、キャラクターの人間性を見ようとしない傲慢さがこんな物語 ”ありえない” という表現を使わせてしまう。

 ”好き” か ”嫌い” かは個人の主観的判断による感想です。

しかし、”ありえない” という表現は世界観の否定であり、西宮や石田の人間性が完全に否定されてしまいます。

 

クレーマーが厄介なのは自分の世界観の話しかしないから。はじめから相手の世界を受け入れる準備がないから対話が成立しないこと。

同じ問題が聲の形感動ポルノ論争で起きました。

物語の中であれほど不器用ながらも懸命に人と向き合っていた彼らの世界観が。その在り方を素晴らしいものだと受け取った我々の価値観が完全に否定されてしまったので、どうしようもない憤りを覚えたのです。

 

物語の最後、人と世界と向き合うことを決意した石田は顔を上げ、人の顔を見て、世界の美しさに気付きます。

 

 

 

この物語を好きになる必要はないが、自分の考えを述べるときはどうか相手の顔をちゃんと見てくれ。

対話はそこからはじまる。