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アレはおだやかじゃなかったわね〜

分かり合えない人へ〜 新海誠が「天気の子」で沈めたものは

京都アニメーションにあってはならないことが起こったとき新海誠は世界がすこしでも豊かに良くなることを願ってアニメーションを製作していると言った。

でもそんな言葉を信じられる気持ちにはなれなかった。あのタイミングで日本のアニメ界を代表する人物がこのような声明を出すことは正しいけど、言葉の意味自体はただの詭弁だと思っていた。そんな僕は翌日『天気の子』をみてアニメーションに救われた気持ちになる。

 

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(C) 2019「天気の子」製作委員会

 

(ネタバレ回避の人は戻ってください)

 

分かり合えない人へ

独占インタビュー!『天気の子』新海誠監督、「君の名は。」批判した人をもっと怒らせたい - SANSPO.COM(サンスポ)

今回の映画について『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたいと語る新海は、そもそもそういう人たちと相互理解を求めているわけではないと思う。だってはじめから分かろうすらしない人って沢山いるんだもの。作品の趣向の好き嫌いとは別で、自分の想像力を超えたものをはじめから理解する気のない人は存在する。そういう人たちは往々にしてアニメーションの可能性やエンタメの可能性を信じていない。自分の固定観念が全てでそれ以外は認めない。「新しさがない」「所詮アニメ 」「馬鹿でも感動できる」「リアリティがない」「整合性に欠ける」→(だからこの映画は駄目)等々自意識過剰な人がよく使う。映画批評における危険ワードや心構えは作家の伊藤計劃氏がまとめている。氏が存命なら『君の名は。』『天気の子』をどう評しただろうか。信用してはならない映画評の書き手の見分け方 - 伊藤計劃:第弐位相

別に好みでないものを無理に褒める必要はない。でもそれをわざわざ怒りに転化してしまう心理は自分の価値観とは異なるもの認めることが出来ない幼稚な怒りだ。

『天気の子』は『君の名は。』以上のテンポ感で都合よく物語が進んでいき、リアリティに欠ける部分もあるし整合性はあまり考慮されていない。当たり前のことだけど物語はある程度都合よく進んだ方が飽きさせず展開させることが出来るし、リアルに寄せ過ぎると地味になる部分(アクションなど)はファンタジーに寄せて派手に見せた方が面白い。この映画はそんな積み重ねだ。どこまでも面白さとテンポ感を優先している。いちいち説明を挟んで展開や設定をこじつける事も尺を伸ばせば可能だろうが物語に没入するための速度が欠ける。新海誠はとくかくオタク心をキュンキュンとくすぐり続ける映像を作りたいのだ。そういう意味で本作は本当に素晴らしい。

相互理解をしましょうだなんて道徳の授業をするためにこんなことを書かないが、大切なのは真に同じ人間など存在せず、真の意味での相互理解はありえないと意識すること。自分が好きじゃないものを受け入れる必要はまったくないがそれを理由に否定することこそ相互理解の敵だ。自分の領空外を否定し攻撃する人とは分かり合う余地すら生まれない。道徳の授業みたいだな⁈

整合性を重視したり新海が用意した様々なシチュエーションに萌えない人にはつまらない映画かもしれない。パトカーで刑事から陽菜の本当の年齢を知った時の帆高の反応にキュンキュンしない人は今作を楽しめなかったはずだ。でもそれは映画に対して目指すものが違ってるというだけで、怒りに転化してしまうのは己のキャパシティの狭さを露呈する行為だ。

 

odayakana.hatenablog.com(シャフト版の打ち上げ花火〜が心無い批判にされされたのは本当に悔しかった)

 

新海誠が沈めたものは

「宇宙空間で音はなりませんよね」との問いに「俺の宇宙ではなるんだよ」と返したのはジョージ・ルーカスの逸話とされているが、新海も自分が面白いと思うものをひたすら追い求める映像作家だ。そしてそんな作風は『君の名は。』の大ヒットによる名声と引き換えに地獄のクソリプのような批判にさらされた(らしい)。劇中で何度も繰り返される台詞「この世界はもともと狂っている」はそんな現実世界への警鐘や怒りでもある。

主人公の帆高は、最後に、大きな決断をする。「ずっと窮屈だなと思っている少年が、誰も言ってくれない、政治家も報道も教科書も先生も言ってくれない言葉を叫ぶんです」

また『天気の子』では、

「僕らは自分たちだけでやっていけるんだ。大人はほっといてくれ」

「神様、お願いです。これ以上僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください」

といった青少年期に感じやすい自意識の発露を繰り返し強調する。常識に囚われず自分の思うように生きたいだけなのに世界が許してくれない苦しさ。そういった肥大化した自意識が世間の常識に一蹴される青少年期の生きづらさに通ずるものを、『君の名は。』の成功の後にこそ、新海は再び意識することになったのかもしれない。

テレビやSNSを駆使して自身の考えを拡散するクリエイターも増えているが新海誠はやはり映像でこそ語る作家だ。『天気の子』のクライマックス後のわずか5秒くらいのモノローグの間に彼はいとも簡単に東京を水没させた。

新海は自分のアニメーションの中でなら既存の東京という常識を簡単に破壊してしまえることを証明してしまった。

「所詮アニメだから」「精神的キモオタ童貞の妄想オナニーだから」←多分ここまでは言われてない

みたいな、現実での心無い批判をアニメーションの中から「狂っているのは現実世界の方だ」と突きつけ、既に狂っていた仮想現実の東京を沈めてみせた。多分この時、現実での心無い批判も一緒にアニメーションの中に沈めたのだと思う。

そして「この狂っている世界で、それでも僕たちは生きていくしかないんだ」と現実に挑戦状を叩きつけた。

自分の中でそういう意味を受け取ったとき、新海誠という映像作家は『君の名は。』から、さらに上の領域へと突き抜けていってしまったと、手のひらを無限に返してしまった。

雲のむこう、約束の場所』のような、良くも悪くも自意識的で自己完結的な映像を作ってきた人間が、世界やエンタメの可能性を押し広げるような。これからのアニメーションの可能性を肯定するような作品を作ってくれたことが無性に嬉しかった。

 

愛にできることはまだあるかい

主人公たちの自意識の選択が世界の命運を左右するというのがセカイ系作品の大まかな設定であり、故にセカイ系は内省的な作品にしかならないというのが個人的な定説だった。しかし『天気の子』はセカイ系の王道設定を使いながらも、アニメーション世界の方から現実が狂っていると、でもその狂った世界で僕たちは生きていくんだと現実世界に突きつけ、外に開いた結論を導き出した。これまでのセカイ系では考えられなかった、アニメーション世界から現実世界へ立ち向かうことに本気で取り組んだ、セカイ系の向こう側へと突き抜けた作品だと思う。

愛の歌も 歌われ尽くした 数多の映画で 語られ尽くした
そんな荒野に 生まれ落ちた僕、君 それでも

愛にできることはまだあるよ
僕にできることはまだあるよ

「愛にできることはまだあるかい」RADWIMPS

こんな時代によくこれほどクサい愛を歌ったものだと思いながら涙が溢れてきた。

悲しい事件、狂った世界。愛は歌われつくし、荒野のように退廃していく現実の中で映画や音楽の中から、自分にできることはまだあるよと進み続ける人たちがいる。それが何よりも嬉しくて、僕はこれからも映画や音楽に救われていくんだ。